+夕日に焦がれる●+


天高くそびえる城壁を囲うように、その街はあった。
夜空を押し上げるような熱気に溢れるその街で買えないものはない。
酒、薬、女。
人を堕落させるにありあまる全ての者が集まるこの街は、堕ちたら最後。
法の無いこの街で弱さは罪だった。
カリエドは、幼いながらもこの街で生きてきた。
狡猾な男、強かな女、その全ての生き様を見つめながら。
そのカリエドを以ってしても、今目の前に広がる光景は、生まれてはじめて見るものだった。

カリエドはぱち、ぱちと目を瞬いた。
生き馬の目を抜くようなこの界隈で、なんとも珍しい光景。
犬を食ってるやつなら山ほど見たが、犬を飼ってるやつは初めて見た。
思わず呟いた。
「珍しなぁ」
弾かれたように振り返ったその顔もまた、珍しい。
見慣れない肌の色をしている。
バター色の肌、とでもいえばいいのだろうか。
蜜のように黒い髪は舐めたら甘そうだ。
近寄って、ぺろっと少年の頬を舐めてみる。
甘いどころか、しょっぱかった。泣いていたらしい。
びっくりしたように目を見開く少年に、カリエドはへらっと笑ってみせる。
「美味しそうやったもんで」
悪びれずに笑うカリエドに、少年はきょとんと首を傾げた。
「・・・美味しくないですよ?」
「食べへん食べへん」
おっかなびっくり後ずさろうとする少年に、カリエドはぱたぱたと手を振った。
見るからにこの街の者ではない。
ところどころ汚れていたが、着ている服は上等な物だったし、真っ直ぐな瞳には知性を感じた。
「おれ、カリエドゆーねん。自分は?」
「本田菊です」
「菊か。ほんで、その小っこいのの名前は?」
菊が抱いている子犬を指差して、カリエドはあっけらかんと聞いた。
子犬は菊の腕の中からもふっと顔をのぞかせると、好奇心いっぱいに尻尾を振っている。
ふんふんとカリエドの指先に濡れた鼻先を押し当てた。
「わはー。かわええなぁ」
「ユウヒっていいます。夕日に似てるから」
カリエドは首を傾げた。
子犬はぽやっとしたクリーム色で、短い手足の先だけが白い。
柔らかなその色は、カリエドが知っている夕日とは大きく違っている。
首を傾げながら、カリエドはよしよしと子犬の頭を撫でた。
「まあかわええし、ええか」
そう結論付けると、ついでに菊の頭も撫でてやる。
涙の後の残る顔を覗き込みながら、カリエドは核心に触れた。

「自分、その犬捨てにきたん?それとも捨てられたん?」

この街では、珍しいことではない。
捨てることも、捨てられることも。
廃棄物、罪人、果ては生れ落ちてすぐの赤ん坊まで。
幼い子どもはその代表的な存在だった。
菊は濡れた目を伏せると、ぽつっと零した。

「捨てないなら、捨てると言われました」

しばらくは、子犬がぱたぱたと尻尾を振る音だけが響いていた。
子犬を見捨てることはできず、かといって子犬を守ってこの街で生きる術は持たず。
何も考えていないのだろう。
ただその腕の中の温かさを守ること以外は。
勇気と称えるか、愚かだと蔑むかは、人によって分かれるところだ。
カリエドはただ純粋に愛しいと思った。
「夕日と駆け落ちか。しゃれとるやん」
笑いながらそう言うと、カリエドは菊の手を引いて立ち上がった。
「一緒に飼おか」
「え」
「この街で俺の知らんトコは無いでー。ええトコ教えたるわ」

犬一匹くらい余裕で匿えるトコ教えたるわ。
カリエドの言葉に、菊の顔がぱあっと輝いた。




今はもう遠い昔

繋いだ手の暖かさだけが確かだった夕日に染め上げられたあの日のこと






○●○●○●○●○●○●○●○




「はい?」
カリエドはすっとんきょうな声を上げた。
「うっそぉ」
菊は笑った。
その表情だけで、真っ先にカリエドに報告しに来た甲斐があるというものだ。
「本当ですよ」
「全教科満点て、出来るん」
「私も今回が初めてです」
菊が手渡した白い紙を見て、カリエドは「うおっ!?」と固まってしまった。
心なしか紙を持つ手がぷるぷるしてたりする。
「共通模試1位て書いてある・・・うっわぁ」
「奨学金を打ち切られずにすみそうで、安心しました」
「それどころか、うちに奨学金出させてくれて名乗る奴ら出てくるやろ」

菊が差し出した紙は、こないだの共通模試の結果表である。
8割取れれば、どんな大学にも無条件で入れる。
もしも9割とれたなら、大学が土下座してうちに入ってくれと乗り出してくる。
それが、全教科満点。ぱーふぇくと。

「学校の教師が奇声発してたて聞いたで」
聞いたときは、まぁ春だしなとしか思わなかったのだが。
なるほどこれが原因か。
「叫んだのは校長だけですよ」
菊は困ったように笑いながら話した。
共通模試の結果が届くなり、教師陣は声も無く床にへたりこんだり、皆茫然自失の有様だったらしい。
校長はといえば、泡を噴きながら学校中に響き渡る声で快哉を叫ぶ始末。
「おかげで学校中どころか、街中に知れ渡ってしまいまして」
菊が苦笑いをする。
誰かに見つかるたびに、鬼気迫る迫力で共通模試の結果を尋ねられるのだ。
おかげで菊はほうほうの体でカリエドの元へと逃げ出しこなければならなかった。
「すいませんユウヒ。しばらく散歩は我慢してください」
菊は申し訳なさそうに首をかしげるユウヒを撫でてやった。
子犬だった頃の面影は、足の先だけが白いクリーム色の毛並みのみ。
立派な体格になり、子どもくらいなら背中に乗せて走れそうである。
弱肉強食のこの街で、あの小さかった子犬がここまで大きく育つなんて、うそみたいな奇跡。
「ここまで来るん大変やったやろ」
菊はカリエドを見上げて笑った。
子犬を抱いて逃げ出した自分を、呆れるでもなく笑って手を引いてくれた。
菊が奨学生として街一番の高校に合格できたときも、まるで自分のことのように喜んでくれた。
カリエドに出会っていなければ、ユウヒも、今の自分も無かったと、菊は確信している。だから。
「一番にカリエドさんに報告したかったんです」
カリエドはぱちくりと目を見張った後、日に焼けた顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんやもー嬉しいことすんなぁ」
笑いながら菊の肩に腕をまわす。
そのままわしゃわしゃと頭をかきまわすカリエドに、構ってくれと言わんばかりにユウヒが飛びついた。
「うおっ!」
カリエドがたまらずたたらを踏む。
最近すっかり大きくなったユウヒが飛びつくと、菊などは吹っ飛んでしまう。
大きくなったなぁ。
菊がしみじみとカリエドに飛び掛るユウヒを眺めていると、ぴたっとユウヒと目が合った。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
かまってー!と目を輝かせて突進してくるユウヒから、菊は必死になって逃げ出した。
「ちょっ、カリエドさんユウヒを止めてください!」
「よっしゃ任せとき!」
空の端が薄紫色に溶け始めるまで、三人はぐるぐると走り回っていた。
ぐったりと地面に座り込む二人の傍で、ユウヒだけが満足そうに目を細めて寝そべっている。
「疲れた・・・・・」
「あー・・・あっかんわ体力落ちたわぁ・・・」
ぐったりと背中を預けあい、菊とカリエドは空を仰いだ。
夕日が沈みかけている。
天高くそびえるような城壁を囲うようにある街だが、この高台からの眺めは城壁どころか遮るものなどなにもない。
ここから眺める夕日は瞼の裏に焼けつくようで。
幼い頃、ここは自分の秘密の場所なのだと、カリエドが手を引いて連れてきてくれた場所。
「今何時ですか?」
「んー。内緒」
「こら」
「だって教えたら帰るやん」
もうすぐ夕日が沈むだろう。空の端からゆっくりと薄紫色がにじみ始めていた。
夕日が沈む。そしたら菊は帰らなければならない。
菊は奨学生だ。
成績はもちろん、その品行が何よりも問われる立場。
深夜の繁華街にいることは望ましくないだろう。

夕日が沈めば、この街の本来の姿が目を覚ます。
ざわめき、怒号、悲鳴、歓声、さまざまな感情と思惑の渦巻く深夜の繁華街。
法の無いそこで弱さは罪。
いうなれば強さが全て、混沌として秩序の無い街。
カリエドの育った世界。

「これでも、マシになってんけどな」
昔は、太陽が沈む前でさえ深夜の繁華街のような有様だった。
カリエドは、生き馬の目を抜くようなこの世界で腕一本で生き延びてきた。
争いが起きれば力ずくで黙らせた。界隈を歩けば大の大人が道を空けるようになった。
誰よりもこの街を知っている。その街に暮らす人々を知っている。
人々の意見に耳を傾け、必要ならば自らの手で街に手を加えた。
カリエドの目が光る内―――太陽が沈むまでは、その混沌とした場所は街と呼ばれるまでに秩序を保つ。
太陽が沈めば最後、手がつけられない。
カリエドは深く息を吐いた。
「菊と飲みに行けるようになるんはいつやろなぁ」
空を仰いで呟く。
風には冷たい夜の匂いが混じり、どこか遠くで爆竹の鳴る音がした。
ゆっくりと目を開け始めた夜の街。
しばらくは無理そうだ。
カリエドは立ち上がると、菊をひょいと立たせてやった。
そのままぐりぐりと頬ずりをしながら、情けない声を出す。
「帰したないなーもー」
「また来ますから」
「ちぇ」
くすぐったそうに身をよじる菊の手を引いて、カリエドはひらひらとユウヒに手を振った。
「じゃあな、ユウヒ。また明日来るよって」
「今度は一緒に散歩に行きますから」
ユウヒは答えるように一声鳴くと、お行儀よくその場に座りなおした。
二人が帰ることも、また来ることも知っているのだ。
尻尾をぱたぱたと振って二人を見送っている。
カリエドはバイクに跨ると、菊が後ろに乗ったのを確かめて、腹に響くような音を立てた。
大型のそれはカリエドが好んで足に使っているもので、とてもじゃないがカリエド以外には乗りこなせない。
ここまでくると、機械仕掛けの暴れ馬と言ったほうがいいだろう。
普通の人間ならまず振り落とされる。
「落ちたら拾いに行ったるから安心しやー」
カリエドが笑いながら言った。
どっどっどっと重低音が響く中、菊は文句を言う代わりにぎりぎりとカリエドに回す手に力を込めてやる。
ささやかな意向返しにカリエドは低く笑うと、最後にユウヒにひらりと手を振って、危なげなく走り出した。








「うおっ。星めっちゃ綺麗」
「前見て走ってください!」
「上を向いて歩こうってゆーやん」
「にじんだ星を数える前に死にますよ!」