ライヴィスやエドのように、恐怖からイヴァンの下についている者もいれば。
ベラルーシのように、イヴァンに自らつきたがっている者もいる。
菊はどちらでもない。
首輪はすでにイヴァンの手によって取り外された。
文字通り自由の身というわけだ。
今、イヴァンの下につく義理も理由も無い。



なのになぜか


(だって)

兵に銃口を向けられたその瞬間

(刀はとりあげられているし)

考えるより先に

(取り押さえるより引き金を引かれるほうが先でしょう)





あなたを背にかばったこの不思議




(撃たれてから気づいたあなたを見捨てるという選択肢があったこと)


(けれど見捨てればよかったなんて微塵も思わなかった謎なことに)


胸に走った焼け付くような痛みが思考を遮った

雪の上だけでなく、イヴァンの顔にまで血が飛んでいる。

菊には赤が似合うと、イヴァンは笑った。

なのに何故だろう、今は驚愕に目を見開いている。























「わん」









幸か不幸か、邸宅を脱出する際に、複数の兵に姿を目撃された。
不幸は、追っ手がかかったこと。
幸は、彼ら一般兵の生存率が上がること。
イヴァンの邸宅が『どっかーん』となっても、屋敷を離れ、捜索にあたっている兵達は無事だろう。
上官は中でふんぞりがえっていると相場が決まっており、実際その通りだった。
彼らさえ再起不能になればいいのだ。
今は敵とはいえ、元は同じ軍人だ。
出来るなら助けたいと、菊の軍人らしからぬ甘さが仇になったのだろうか。
追っ手の数は尋常ではなかった。

「・・・人気者ですね、ホント」
「僕は一途だから、その他大勢にモテても嬉しくないよ」
「さいで」

のんびりと呟くその横顔が憎たらしい。
殴る代わりに握り締められている手にぎりぎりと力を込めた。

いつの間にかイヴァンが菊の手を引く形になっている。
それが何故なのか、どこに向かっているのか、それを疑問に思うような体力も気力も残っていない。

追っ手は次々とやってきた。
出会う端からなぎ倒していたが、無傷で逃げ出す、というわけにはいかなかった。
死なないように、と手加減していたこちらと違い、向こうは遠慮する必要がない。
手痛く痛みつけられた。
体のあちこちが痛み、特に腹部の痛みが強い。
もしかしたら内臓がやられているのかもしれない。
ぼろぼろな状態で地下に転がされていた、あの日を思い出した。
もしかしたら、これって走馬灯ってやつですかね。
どこか朦朧とする意識の中、菊はそんなことを考えた。
「死んだら殺すよ」
「すいませんわけわかんないです」
菊の限界を見てとったのか、イヴァンが振り返らずに言う。
そしていきなり菊の手を離すと、急にその場にしゃがみこんだ。
思わず菊の目が白黒する。
「はい」
「はい?」
展開がよめない。
背中を向けてしゃがみこむイヴァンに、菊は目と口をOの形にして固まった。
「えーっと」
「おんぶ」
「いや、そうでなくて」
聞きたいのはWHATではなくWHYである。
一分一秒でも早く邸宅から離れなければ『どかーん』の巻き添えを食らってしまう。
それはわかっている。わかっているの、だが。
この状況がわからない。
菊と違い、イヴァンは時間を無駄にするようなことはしなかった。

「早くしないとマッパにするよ」

「お邪魔しますわあ広い背中ですねさすが!」

マッハでおぶさりました。

菊が背中に張り付いたのを確認すると、イヴァンは軽々と歩き出した。
ちょぴっとプライドが傷ついた菊である。

「相変わらず軽いね」
「・・・さいですか」
「軽いと捨てないですむから便利だよね」
「それはそれは」
ようござんしたね、と呟きたくなったが、これでも上官一応上官と心の中で唱えることによってなんとか飲み込んだ。
「捨てたくないものが軽いと便利だよね」
「それはそれは」
ん?首をかしげる。
微妙にニュアンスが違っていたような。
尋ねようとしたところ、イヴァンが急に立ち止まった。
あわや敵かとイヴァンの背かと飛び降りた菊に、イヴァンがのほほんとした声をかける。
「そろそろかな」
菊は首をかしげた。
「何がですか」

答えは爆音だった。

「・・・・・っ、!」
夜空を押し上げるような光は、一瞬真昼かと錯覚するほどで。
充分に距離をとっていたはずなのに、衝撃で地面に投げ出されたほどだ。

どうやら、18時ジャストになったらしい。

イヴァンが言うところの『どかーん』(そんな可愛らしいもんじゃない!)が起こった。

「・・・見事に吹き飛びましたね」
「だね」
雪の上に倒れこんだおかげで、打ち身程度ですんだ。
ぱたぱたと体を払いながら起き上がり、イヴァンの隣に並ぶ。
かつてイヴァンの邸宅のあった場所は、もうもうと黒い煙があがっている。
屋敷を離れ、捜索にあたっていた兵達は生き残っているだろう。
上官は中でふんぞりがえっていると相場が決まっており、実際その通りだった。
当分は、反旗を翻そうなどと考える勇者は現れないだろう。
「ひと段落、ですかね」
「当分は平和だといいね」

菊はふとイヴァンの横顔を見つめた。

イヴァンはんーっと大きく伸びをしている。
(・・・そういえば)
思い出した。
首輪が無い今、自分はこの部下でもなんでもない。
ライヴィスやエドのように、恐怖からイヴァンの下についているわけではない。
ベラルーシのように、イヴァンに自らつきたがっているわけでもない。
首輪はすでにイヴァンの手によって取り外された。
文字通り自由の身というわけだ。

そう思って、ふと後ろを振り返った。
イヴァンとは全く別の道を行ったら、無防備に伸びをしているこの人はどんな反応をするだろうと。
ちょっとした悪戯心だった。
だから、菊がふと振り返ったのは、まったくの偶然だった。
ましてや、引き金に力を込める兵士と目が合ったのも。



一瞬の空白。
驚愕、逡巡、互いの目に浮かんでは消えた、その一瞬。
その瞬間を見逃さず、菊は動いた(そして冒頭へ)




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




急激に体温が冷えていく。
悪役がそうするように、イヴァンに背を預けずるりと地面に崩れ落ちた。
菊の背を支えるイヴァンの手が、ぬるりと滑って赤黒く染まった。
熱いと思ったのは一瞬で、全身の血が冷えていく。
菊は軍人だ。
それこそ数え切れないほど怪我をした。
傷が無い場所など、それこそ背中くらいで。
それが誇りでもあった。
その経験からいえば、これは、危ない。
すうと急激に全身が冷えていくにつれ、意識も遠のいていく。

その後のことは、霞がかったようにおぼろげにしか覚えていない。

イヴァンが母国語で短く吐き捨てた。
銃を持っている兵が手ぶらのイヴァンに怯む気配。
スラングかなにかだろうか、イヴァンの声は菊が聞いたこともないような怒気をはらんでいた。
暗闇の中、無数の足音がする。
それも、蹄の音も高らかな騎馬の音。
新手かと思いきや、あからさまにうろたえたのは兵の方だった。
優しい風貌の青年は、恐らく騎士団長だろう、纏う衣装は最高位の緋色のものだ。
彼らが掲げる旗は、どこの国のものでもない。
(・・・独立騎兵団)
国によってではなく、民のために働くことを誓った騎士団。
おかげであちこちの国家から睨まれているらしいと、ベラルーシが心配そうに話していた。

イヴァンの下から友とともに独立した彼のことを。

「アンタの手助けとかマジありえんしー」
「フェリクス!」

間延びした声と、それにかぶさるような慌てた声。
しばらく、イヴァンと彼らの間でやり取りが続いたようだった。
まるで、彼らが来ることを知っていたかのようなイヴァンの態度に、もしかしなくても知っていたのだろうと思った。
大方、あの爆発が合図だったのだろう。
確かめたかったが、聞こえたのはイヴァンの朗々とした声だけだ。
「残党勢力の一掃。及び国内の混乱の沈静化。この二つを正式に依頼するよ」
「言っとくけどトーリスは戻らんしー。後、ただ働きとかありえんし?」
「もちろん払うよ。貴族の家丸々3つ分」
イヴァンが挙げた貴族の名を聞いて、フェリクスは首をかしげていたが、トーリスは目を見開いた。
トーリスは元はイヴァンの下にいたことがある。
国内でも有名なその貴族達の名は聞いただけでわかっただろう。
無論、それらはイヴァンに反旗を翻した貴族達の家名である。
「クーデターは家名没収と相場が決まってるからね。彼らの全財産で」
「それで充分です」
フェリクスと呼ばれた彼は、イヴァンの視線を遮るようにずいっと身を乗り出した。
そして菊を指差して言う。
「見るからにやばいし」
「見てわかるなら聞く前に動いてくれる?」
イヴァンのどこか切羽詰ったような声に、トーリスと呼ばれた青年が目を見張っていた。
フェリクスはイヴァンの言葉にぶーぶーと口を尖らせながらも、素早く救護団を配置し、応急処置に取り掛かった。
布が傷口を圧迫する感覚に、今度こそ菊の意識はすっと落ちていった。



だから、これから後のことは菊は知らない(聞いても誰も教えてくれなかった)(何でだ)





「深っ。ぶっかけた方が早いし!」
言うなり、フェリクスは消毒液の入った小瓶を逆さまにして、傷口に景気よくぶっかけた。
思わず痛そうと目を逸らしたくなる光景だったが、菊はうめき声一つあげずにぐったりとしている。
よくいえば男らしく悪く言えば乱雑だが、フェリクスの手つきは意外に器用で的確だ。
彼の故郷は優秀な看護師を数多く輩出している。
イヴァンは、トーリスが「なぜかフェリクスが巻いた包帯だとぴたっと血が止まるんです」と感心しきりだったことを思い出した。
「痛そうだね」
「痛さ感じてる余裕とか無いと思うし」
「・・・ふうん」
手際よく応急処置を施すフェリクスは、イヴァンの表情に気づかなかった。
見ていた兵が、思わず青ざめて後ずさった、その表情に。
「その瓶、もらっていい?」
「どうせ捨てるし」
フェリクスは振り返りもせずに、ほいと小瓶を渡した。
「どうするんですか?それ」
手際よく指示を出していたトーリスが首をかしげながら聞いた。
振り返ったイヴァンの全身からにじみ出る暗く黒い何かに、ざっと音を立てて血が引いた。
総指揮官という立場から、表面に動揺を出すことはしなかったが、下の兵達はそうもいかない。
周りの兵の動揺たるや、凄まじかった。
不自然なほどゆっくりと歩くイヴァンに、自然と道を譲る。
そうして出来た道の先には、縄をかけられた一人の兵がいた。
イヴァンを狙い、結果的に菊を撃った、その兵が。

「ねえ。きみ」

イヴァンの声に顔をあげた兵は、どうやら生存本能に欠けていたらしい。
でなければ、今の状態のイヴァンにあらん限りの罵詈雑言をはきかけるなんてことはしなかったはずだ。
しかも理路整然と怒るのではなく、兵に同情的だった者まで眉をしかめるような、支離滅裂なスラング。
そして極めつけの一言。

「上司が屑なら部下も屑だな!屑をかばって無駄死にたぁ、屑に似合いの死に様だなぁオイ!」

狂ったように笑う、その口にイヴァンは小瓶をねじこんだ。
投げやりな仕草で兵を地面に転がすと、無造作にその顔面を踏みつける。
一連の流れはあまりにも自然で、止める暇も無かった。

じゃりまじりの泥をふむような音が響く。

想像したくないその音が。

「ひっ・・・!」
思わず漏れた悲鳴が誰のものか、判別するのも馬鹿らしい。
想像したくない音に、腰を抜かす者がいた。
不幸にも直視してしまった者は、ある者はその場で意識を失い、ある者はこみあげる吐き気にその場を走り出した。
「痛い?」
イヴァンの声には何の感情もこもっていなかった。
「でもね、菊はもっと痛かったよ」
イヴァンはうっすらと笑みを貼り付けた。
「ごめんなさいって言えたら助けてあげる。ハイ」
くぐもったうめき声に、イヴァンはひょいと足をあげた。

「聞こえないよ」

そして力を込めて振り下ろす。

いっそ殺してくれと、彼がイヴァンの足の下で呟いたかどうかは、菊には知る術が無かった。
その時のイヴァンを見た者は皆頑なに口をつぐみ、青ざめた顔で黙り込んでしまったので。