「この手錠、どうにかなりませんかね」

菊は手錠で拘束された両手をじゃらりと掲げてみせる。
鎖は強固で、生半可な刃物では切れそうに無い。
銃か何かで吹き飛ばすか、鍵で開けるしかなさそうだった。
イヴァンは重要人物なため下手な緊縛は出来ないらしく、拘束の類は一切無しである。ずっこい。

「そりゃ僕より菊を拘束した方が目に楽しいじゃない」

「・・・楽しいですか?」

「うーん」

イヴァンが首を捻って言った。

「首輪はともかく、手錠は僕がつけたわけじゃないからなぁ」

手ずからつけたのならいいのか。
菊はツッコミをぐっと飲み込んで、必殺・軽く流すを発動した。

「イヴァンさんがつけたものだったら、外して頂けたんですけどね」


言って。




目を見開いた。




弾かれたように振り替えった菊に、イヴァンは笑った。

「似合ってるのに」

残念。

イヴァンが呟くなり菊の首にそのひやりとした手がかけられ、そして。








ぼんっ。








「何事だっ!」

部屋の中から突如響いた爆音に、見張りが弾かれたように飛び込んできた。たったの二人。
扉の影に身を潜めていた菊は、一人の首の後ろに手刀をくらわせて気絶させる。
振り返ったときには既に、イヴァンがもう一人の見張りを床に沈めていた。
肉弾戦のイメージはなかったが、そういえばと片手で抱えあげられたことを思い出した。

「跡ついてませんか?」

ずいぶんと久しぶりに自由になった首を撫でつつ、感慨深げに呟いた。

「残念なことに」

「それはなにより」

鎖を吹き飛ばしたのみなので、手錠はまだ手首についたままである。

自由に動けるのでそれはよしとしよう。

問題は。

「今の騒ぎ、他の人間にも聞こえてませんかね」

答えは荒々しい軍靴の音である。

「・・・うわっちゃあ」

「じゃ、愛の逃避行としゃれこもうか?」



なによりもこの笑顔で手を差し伸べてくる男から逃げ出したいと菊は思った。切実に。
















「わん」










「エドとライヴィスは?」
「私を引き渡した後、本部へ落ち延びるよう打ち合わせてあります」
エドとライヴィスの『本部が騒然となった』との言葉から、菊は反イヴァン派の人間がこの邸宅に集中していると見て取った。
そしてそれはイヴァンの言葉によって立証された。

「だってちまちま潰すより一気に叩いたほうが早いじゃない?」
「・・・抵抗もせずに捕まった理由はそれですか」

もう辺りは薄暗くなっている。エドとライヴィスは本部へ落ち延びただろう。
残るは自分達二人である。
二人は、まだ脱出せずに邸宅内にいた。
あの後、窓をぶち破って外にロープをたらし、後はイヴァンとともに隠し部屋に息を潜めていた。
使い古された手だが、効果的だからこそ使い古されるのだ。
予想通り、駆けつけた兵士達はその光景を見るなり、口々に怒りの声を叫んだ。

「外を探せ!」
「まだ近くにいるはずだ!」

予想外だったのが、窓の外にそのまま身を躍らせる兵がいたことだ。
下には雪がつもっていたはずだが、なんだかオチを想像したくないような音が。
「うわあ・・・」
「雪が積もってるからねぇ」
イヴァンはどこまでもイヴァンである。
隠し部屋といっても、本棚の後ろの小さな空間は奥行きこそあるものの人一人立てるようなスペースは無い。
イヴァン曰く、人が楽に収納できるようなスペースの隠し部屋はすぐに見抜かれるそうで。
二人は腹ばいになって寝そべるようにして隠し部屋で息を殺していた。
会話はほとんど吐息のような囁き声である。耳がこそばゆい。
「・・・ほとんどいなくなりましたね」
「あと3人かぁ」
この部屋にいる3人の兵士は、騒然としている邸宅内そっちのけで金目のものと漁っている。
イヴァンが言うに外へと脱出できる隠し通路があるらしいが、この兵士達が消えてくれなければ動けない。
せめて二人なら叩きのめせたのだが、三人だと全員を気絶させる前に仲間を呼ばれる可能性がある。
そうなったら終わりだ。
現実問題として、二人は丸腰であり捕虜(脱走中)であった。
「この状況で、どうやって一気に叩く気ですか」
イヴァンは人差し指を立てながら、楽しそうに言った。

「『どかーん』と」

ようやくその意味が頭に到達した時、菊はぎぎぎっ、とイヴァンを振り返った。
その、心底楽しそうな顔を。
「・・・ちなみに、何時に『どかーん』ですか?」
「18時ジャスト」
菊は腕時計に視線を下ろした。残り2時間弱である。

菊は「何でもっと早く言わないんですかっ!!!」とは叫ばなかった。叫べなかった。
部屋の中にはまだ数人の兵士がいる。
もはや早くどっか行けと念を飛ばすしかない。
祈りが通じたのか、兵士の一人がふと顔を上げた。

「おい。なんか今光らなかったか?」

すわ金目のものかと他の兵士も顔を上げた。

「どこだ?」
「そこの本棚だ」

菊はぎくりとした。
心臓が一際強く脈打ったが、逆に手足はすうっと冷えていく。
イヴァンは何の表情も見せずに、小さな覗き穴から本棚に近づいてくる兵士を見ている。
その、覗き穴から漏れる光を反射して、イヴァンの金髪がきらりと光った。
イヴァンは気づいていない。

「ほら。やっぱり」
「わかんねえよ。どこだよ」
「下の方だよ」
「下ぁ?」

考える暇もない。
菊は何も言わずに(喋ったらバレる!)イヴァンの頭を抱き寄せて覗き穴から引き剥がした。
イヴァンがびっくりしたように目を見開いて、どうしたのと言うように口を(開くな!)

「っかしいなぁ・・・」
「本当に光ったのか?」

両手はイヴァンの頭を抱き寄せている。
喋って警告するなど論外だった。
菊はほとんとぶつかるようにしてイヴァンの口を塞いだ。
イヴァンはかつてない驚きの表情を浮かべていたが、たまりかねて眼を閉じている菊にはわからなかった。
歯と歯がぶつかって痛かった。
よくレモンの味に例えられるそれは血の味がして。
めまいがした。

「貴様ら何をやっているのだ!」
「たっ隊長・・・!」

怒号を遠くに聞きながら、イヴァンがすっと唇を離した。
菊がは、と息をついて吸うのを見てとると、今度は深く口づけた。

「馬鹿者が!この緊急事態に何をやっておる!」

ぜひともこの馬鹿にも言ってやってくれと言いたかったが、出来なかった。
口の中にはイヴァンの舌がある。
イヴァンの髪を引っ張って抵抗を試みたが、稚拙な抵抗は煽っただけだったようで、舌で歯列をなぞられた。
下唇をやわくはまれて全身が総毛立つ。
もがく舌をあっという間に絡めとられ、全身の力が抜けた。
腰にじんとした痺れが走る。立っていたら崩れ落ちていただろう、それほど感覚が強かった。

怒号。遠ざかる足音。慌しい足音と、荒々しい足音。
それらが完全に遠ざかった後、ようやくイヴァンは菊を離した。

「っはぁ・・・」
自らがついた甘ったるい吐息に、菊は愕然となった。
酸欠で視界はにじみ、顔面に血が上っている。
「いい眺め」
イヴァンが楽しそうに呟く。
口の端から伝う唾液もそのままに呆然としていると、イヴァンがつうと舐めあげて菊の喉奥に流し込んだ。
じんとした腰のしびれが全身に散っていた。肘を突いて体を起こそうとする端から崩れ落ちる。
状況も忘れて呆然となった。
「初めて?」
「はい?」
答えになってない。思考が上手く働かない。
明らかに疑問系の答えだったが、イヴァンはこの上なく上機嫌に頷いた。
「そっかそっか」
部屋はがらんとしていて、邸宅内の騒動もどこか遠い。
首筋に走ったつきんとした痛みに、菊はようやく我に返った。
「何を考えてるんですか!」
「菊のこと」
「・・・・・!」
金魚のようにぱくぱくと口を開閉させるしかできない。
もはや言葉も出ない菊を赤ん坊のように抱き上げて、イヴァンは隠し通路の一つを開けた。
時間も状況も切羽詰っているというのに、イヴァンは悠々としている。

「なんかデジャヴじゃない?」
あやすように背中をぽんぽんと叩かれて、菊はがっくりと肩を落とした。
かつーんかつーんと階段を下るご機嫌そのものの歩調に、嫌でも記憶を呼び起こされる。
首輪が無いだけ、あの時よりマシかもしれない。
そう自分に言い聞かせて慰めた。