一瞬のことだった。

菊が閃くように刀を抜き放つと同時、イヴァンの髪がぱら、と数本舞い落ちた。

ぱちぱちと目を瞬くと、イヴァンはのんきに呟く。



「びっくりしたぁ」



事態についていけずに、しばらくきょとんとしていたエドとライヴィスだが。

状況を把握するにつれて、その顔からは音を立てて血の気が引いていった。

二人の恐怖に満ちた視線を浴びて尚、抜き身の刀を構えた菊は微動だにしない。

射抜くような視線で窓の外を睨み続けている。

視線に力があるならば、分厚い防寒ガラスに穴を空きかねない勢いで。

だが生憎と、菊の視線の先のガラスには、既に穴が開いていた。

できたてほやほやの狙撃された穴が。



「刀で銃弾って切れるんだ」



イヴァンは背後の壁に開いた二つの穴を見て、いたく感動したようだった。



「お願いですから暗殺されかけたことに感動して下さい・・・」


背にイヴァンを庇った菊は、窓の外を見据えたまま力のない声で呟いた。

菊が銃弾を切って軌道を逸らさなければ、髪の毛数本どころか脳天貫通していただろう。

エドとライヴィスの顔にはもはや引くような血の気が残っていなかった。



イヴァンが暗殺されかけたということ。

銃弾を刀で切れるような人間がいるということ。

イヴァンを暗殺しようと考えるどころか実行に移すような命知らずがいること。




そしてなにより、狙撃された窓を見るイヴァンの口元が、うっすらと笑みの形につりあがっていること。

それがなにより恐ろしかった。

 





















「わん」



















人がいない図書館はどこか寒々しいものがある。
全体的にどこかかび臭さがこもっているが、床はよく磨きこまれていた。
かつーんかつーんと響く足音が高い天井に反響し、ますます寒々しい雰囲気を増長する。
「すごい本ですね」
「旧館のものをそのまま移行してきたらしいですよ」
ラトビアはやっぱりぷるぷるしていた。
朝のイヴァン暗殺未遂ショックを引きずっているらしい。
なんとなく撫でてみると、一瞬ビクブルッとなったが、心なしかぷるぷるが収まったようだ。
ちょっと気持ちよさそうにしている。かわいい。
目当ての本棚はちょうど死角になるような場所だった。
棚を曲がれば、誰の興味も引かないような専門書の群れに圧倒される。
この中から探さなければならないのか。
毎度のことながらイヴァンの用事には面倒くさい類のものが多い。
「エドさんが好きそうですね」
「でも、エドは紙の本が嫌いらしいから」
匂いが苦手らしくて、と言うラトヴィアの言葉に首を傾げた菊だった。
いい匂いだと思うのですが。
「えと、ここですね」
「お手数おかけしました」
「本当にお手伝いしなくて大丈夫ですか?」
若干ぷるぷるの収まったラトヴィアが、首を傾げて聞いてくる。
「大丈夫です。後は私の仕事ですから」
しばらくつき合う内に、ライヴィスは菊が意外なところで頑固なことを知った。
ちょっと躊躇ったが、結局はライヴィスが折れた。
「それじゃあ、何かあったら呼んでください」
「はい。ありがとうございました」
とたたたた、と遠ざかる軽い足音を聞きながら、菊はため息をついた。
リストに書かれた本の数は少なくはない。
探す手間ではなく、イヴァンの行動に呆れてのため息だった。
「・・・何考えてんですかね」
暗殺されかけた直後だというのに、何故自分達を遠ざけるような真似をするのか。

『このリストの本を探してきて。ゆっくりでいいから』

しばらく離れていろ、と言っているのだろう。
エドとライヴィスも、それぞれ似たような仕事を言いつけられていた。
「・・・あの人だけはわかりませんね」

「だれ」

弾かれたように振り替える。
とっさに刀に手をかけなかったのは、声が少女のものであったからだ。
白い。雪のような、というより、雪そのもののような少女。
冴え冴えとした美しさはいっそ無機質じみている。

「・・・本田菊と名を申します」
答えてから、上官にするように丁寧に一礼する。
少女はゆるゆると首を振った。
「違う。あの人」
淡々と喋る声は小さいが、不思議とよく通る。
単語だけで意味を汲み取るのに時間がかかったが、ようやく合点がいった。
さっきの菊の独り言のことを言っているのだろう。
「イヴァン・ブラギンスキさんといって、私の上官のことです」
「・・・イヴァン」
ぽつっと呟くと、少女は菊の顔を見、首にはめられたものに目をやり。
「わかった」
こくりと呟いた。

何を。

言いたかったが、言葉が出てこない。
少女が何か迷っているような雰囲気を感じ取って、菊はちょっと微笑んでみせた。
「菊とお呼びください」
「・・・菊」
指差し確認すると、少女は次に自分自身を指差した。そして呟く。
「ベラルーシ」
実に端的である。
「ベラルーシさんですね」
少女は目線をすっと下げた。
どうやらベラルーシの頷きにあたる行動らしい。
無造作に近づいてきたかと思うと、本のリストを抜き取られてしまった。
あまりにも自然な仕草だったから抵抗しようという発想すら浮かばない。
ざっとリストに目をやると、氷の上を滑るように歩き出す。不思議なほど足音がしない。
「こっち」
「え、はい」
なんだか抵抗できないままついて行く。
菊は内心で首を捻ったが、ベラルーシにずっしりとした本を手渡されて目をぱちくりさせた。
「はい」
「え?」
「リストにあった本」
本と一緒に手渡されたリストと見比べる。
どうやら、箇条書きに書かれていると思ったタイトルは、全て一つのものだったらしい。
「・・・一つ一つ探すところでした」
菊が苦笑して首を傾げると、ベラルーシも真似して首を傾げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「時間大丈夫?」
「おかげさまで」
ベラルーシはぽそっと呟いた。
「お茶する時間はある?」
菊はふと、イヴァンの『ゆっくりでいいから』との言葉を思い出した。
まさかベラルーシの存在を予想した上での言葉だったのか。
色々と思うところはあったが、とりあえず菊は微笑んで頷いた。
「ご相伴に預からせていただきます」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



棚の奥を抜けて、保存文書のガラスケースを通り過ぎて。
机が一つ、椅子が二つ。
それだけでいっぱいになってしまうような小さな空間で、菊達はお茶にした。
「エドさんとライヴィスさんだけでなく、トーリスという方がいらっしゃったんですか」
「もういないけど」
きゅっとベラルーシの眉が寄せられた。
拗ねて可愛いのは女の子の特権ですねとしみじみ思った菊である。
「フェリクスと独立した・・・」
聞けば、イヴァンの元から独立したトーリスは、フェリクスという親友と共に騎兵隊を創設したらしい。
「トーリスさんとは、仲がよろしかったのですね」
「・・・ちょっと」
親しかっただろう様子が窺えるような口調だった。
ほほえましいと和んだ菊だったが、次にベラルーシがとった行動に凍りつく羽目になる。
「・・・それ何」
「・・・ああ。これですか」
菊は首のものを撫でて苦笑してみた。
「無理やり外すと爆破するとか言わ」

くいっ。

無造作に菊の首輪を引っ張ったベラルーシに菊は総毛だった。
もし猫なら尻尾をぼっと膨らませていただろうが、菊は人間だったのでベラルーシの白い手を素早く首輪から外した。
「ちょっ!危ないですから本当にベラルーシさんも危ないですよ!」
ベラルーシは菊に握り締められている手をじっと見ていた。
ようやく視線に気づいた菊が「すいません!」慌てて、しかしそっと離す。
振り払うのは失礼だと思い咄嗟にとった行動だったが、かえって失礼だったかもしれない。
「時間は?」
ベラルーシが銀の懐中時計をとりだして、ぱくっと開いて見せてくれた。
彼女の容姿と相まって、どこかアリスを思い起こさせる光景である。
見れば、ちょうどいいころあいの時間だった。
「ではそろそろ。お茶ごちそうさまでした」
美味しかったです、と菊は丁寧に一礼した。
最初の上官にするような一礼とは違って、少女を女性として扱った丁寧なそれだった。
ベラルーシはなにか考えるような間を空けた後、唐突に言った。
「・・・イヴァンに会ったら」
「はい?」
「それの外し方聞いてみて」
首輪を指差して、なんでもないように言い放つベラルーシに菊は凍りついた。
「・・・えーと。教えてくれないと思います、よ・・・・・?」
「大丈夫」

何が。

聞きたかったが、やはり言葉が出てこなかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「お帰り」
菊は軽く人が殺せそうな本を差し出した。
「リストにあった本になります」
「はい。ご苦労様」
エドとライヴィスはまだ戻ってきていないようだった。
イヴァンは書類から顔を上げずに言う。
「早かったね」
「手伝っていただきましたから」
「だろうねぇ」
やっぱり計算済みか。
菊はちょぴっと半眼になった。
「最初からベラルーシさんのことを言って頂けたらよろしかったのに」
「ん?」
そこでようやくイヴァンが顔を上げた。
菊を見、菊の首輪を見、

「ああ」
納得したように呟く。

だから何が。
言いたかったが、やっぱり言葉が出てこない。
「ベラルーシが手伝ってくれたの?」
「はい。おかげでずいぶんと早く探せ出せました」
「でも、ベラルーシが手伝ったにしてはゆっくりだったね」
「お茶に誘っていただいたので」
「へぇ。珍しい」
いつの間にかイヴァンが書類を書く手を止めていた。
「お茶をして、トーリスさんの話を聞かせていただいたり」
「うん。それから?」
菊は違和感を感じたが、その違和感の正体がわからない。
イヴァンが口元に笑みを貼り付けて言う。
「他には何を言われたの?」
菊はどこか背筋がひやりとするのを感じた。
イヴァンの目に宿る冷たい光が促すままに口を開く。
「・・・イヴァンさんに会ったら、聞いておいて欲しいことがあると」
「会ったばかりの君に伝言を頼むなんて、よっぽど気に入ったんだね」
やはりおかしい。
ことさら自分とベラルーシの間柄について強調してくる。
そこで菊は違和感の正体に気づいた。
イヴァンは菊の目ではなく、菊の首輪を見つめて喋っている。
どこか底冷えするような光を浮かべながら。
「それで、なんて?」
口調こそ質問の形をとっているが、その実上官命令に等しい。
逆らえない。
「・・・これの、外し方を聞いて欲しい、と」
「外して、それでどうするんだろうね」
「ただ、聞いておいてとしか」
「僕の下から引き抜いて、自分の下に置く気かな」
「そんな」
「つもりなんだと思うよ」
イヴァンは菊の手を掴むと、さっさと歩き出した。
書斎を出て、革靴の音を鳴らしながら廊下を早足に急ぐ。

「手放す気なんて無いけどね。絶対に」

菊は目を見開いた。
イヴァンに連れて行かれた先は何故か浴室だった。
とはいっても、日本のように湯船にたっぷりと湯を張るのとは全く違う。
スチームサウナのように湿気を満たしてたっぷりと汗をかき、それから水をかぶったりする形式になっている。
とん、と軽く背中を押されて、土足のまま一歩踏み入れる。
菊がぶわっと水蒸気に包まれた瞬間、イヴァンが後ろ手に扉を閉める音がした。
「なんで・・・!」
思わず言い募ろうとした菊に、イヴァンは口に人差し指を当ててじっと見つめてきた。
全世界共通の「静かに」のポーズ。
わけがわからない。
どれくらい経っただろうか。
水蒸気で全身濡れ始めた頃、イヴァンはがらりと口調を変えて呟いた。

「んー。もうそろそろ大丈夫かな」
「はい?」

イヴァンはのんきに呟くと、ごく自然に菊の首輪に指を差し入れた。
ぎょっとする菊に構わず、なにか小さな紙片のようなものを取り出す。
「・・・なんですかそれ」
「盗聴器」
目を見開いた菊に、イヴァンはいつもの口調で言った。
「もう大丈夫だよ。水分と温度に弱いんだよね、こういうの」
「じゃあ、最初から」
「うん。演技」
イヴァンはぽいっと水桶の中に盗聴器を放り込んでしまった。
「ベラルーシからのメッセージだろうね」
「・・・なんて?」
「盗聴器に注意」
でなきゃこんなわかりやすい所につけないよ。
イヴァンはとんとんと菊の首をつついてみせた。
「最近周りがキナ臭いからね。多分、僕の屋敷中につけられてるんじゃないかな」
イヴァンが狙撃されたことを思い出し、菊はさっと顔色を変えた。
菊という今までに無い要素が入ったからこそ、あの狙撃は失敗に終わったのだ。
あの狙撃ポイントを割り出すために、イヴァンの一日の行動は入念に調べられていたに違いない。
それこそ山のような盗聴器でも使って。
思わず口を押さえた菊に、イヴァンはぱたぱたと手を振った。
「大丈夫。こんなトコに盗聴器なんかつけれないから」
つけても壊れるし。
イヴァンはのんきに呟くと、サウナの椅子に腰掛ける。
「近々クーデターがあると思うんだよね。それでベラルーシも警告してきたんだろうし」
あっけらかんと重大発表をするのはやめてほしい。
菊はそう呟くかわりに、地を這うような声で重々しく言った。
「・・・詳しく聞かせていただきましょうか」
言いながらばさっと勢いよく着ていた服を脱ぎ捨てる。さすがに下は脱がなかったが。
さすがに息苦しくなってきたのと、長くなりそうな話だと思ったのもあるが、なによりここは風呂だという感覚だったので。
大浴場などで慣れている菊にとってはごく自然な行動だったが、イヴァンは軽く目を見開いていた。
「意外だなぁ」
「はい?」
「ううん。僕も脱ごっと」
イヴァンも菊にならって上の服を脱ぎ捨ててしまう。
菊は首を傾げつつ、イヴァンと自分の脱いだ服を浴室の外に出した。ついでに靴も脱いでズボンだけになってしまう。
「まぁ、話の続きなんだけどさ。こまごま反発されるより、一気に叩いたほうが楽なんだよね」
「・・・もしかして、煽ってたんですか?」

狙撃の直後、自分達を遠ざけたイヴァンを思い出す。
あれは宣戦布告だったのだろう。
スコープ越しにイヴァンを見ているであろう暗殺犯に、ひいてはその背後にいる者達全員に。
ねえ。早くおいでよ。

目を細めて笑うイヴァンがありありと想像でき、サウナのせいだけではない汗が伝った。
「菊は僕の部下だってこともアピールしといたし、これで動くでしょう」
「はい?」
意味をとりかねて首を傾げた菊に、イヴァンはにっこりと笑った。
「きみ、餌だから」
その言葉の意味がわかった瞬間、菊の口の端がひき、とひきつった。

菊がいなければ成功していたであろう狙撃。
イヴァンがことさら強調した菊を手放す気はないとの宣言。
菊を消すなり、味方に引き込もうとするなり、なにかしらの動きがあるだろう。

「よろしくね」
あっさりと言い切ったイヴァンを半眼で睨みつける。
楽しそうに笑うイヴァンに肩を落とした菊だったが、ふと頭を掠めた疑念に首を傾げる。
「私とベラルーシさんの間柄を強調する必要はなかったのでは?」
「ああ。あれ宣戦布告」
「いえ。ですから」
もしやベラルーシさんがクーデターのトップ!?と愕然とした菊に、イヴァンはぱたぱたと手を振った。
「ないない。ベラルーシは地位にも他人にも興味無いから」
なんとなく納得できる。
「盗聴器の警告だけなら、僕が頼んだ本につければすむ話だったじゃない?」

お茶する必要も。
ましてや首輪を外す方法を知る必要も。

「?」
話が見えずに、菊は首を傾げた。
イヴァンは笑いながら続けた。

「ベラルーシと僕って、好みが似てるんだよね」

だから宣戦布告。
にっこりと笑うイヴァンに、菊はやっぱり首を傾げたままだった。








その頃、イヴァンに言いつけられた仕事を終えたエドとライヴィスは。
浴室の前に置かれていた二人の服にすっかり勘違いしていた。
「・・・なるべくゆっくりしておいでって、こういう意味だったんだ・・・・・」
二人の顔こそサウナに入ったときのように茹で上がっていた。
姿が見えない上官とその副官を探しに来たエドとライヴィスは、お邪魔しましたと心の中で呟くなり。
足音を殺して可能な限りの速度で逃げ出した。