「うーん・・・」

イヴァンは書類を片手に唸り声を上げていた。



・・・珍しい。



エドとライヴィスはぱちくりと目を合わせた。



「もうちょっと太ってくれないと、骨が刺さって痛いんだよね」



・・・いつも通りだった。



エドとライヴィスはそっと遠くの方を見つめた。

あの東洋人の顔が浮かび、その首にあるものが浮かび、二人は同時に顔を赤らめた。




二人の誤解は現在進行形だった。





















「わん」


















菊がもう自力で歩けるほど回復したとき、ライヴィスが菊のもとにやってきた。
「だいぶ元気になられたみたいで、安心しました」
ライヴィスがちょっとぷるぷるしつつ言う。
菊を恐れているのではなく、こういう体質らしい。
常に潤んだ瞳といい、某CM犬を思わせる少年である。
「おかげさまで。ご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳ありません」
「いえ、全然。それで、えっと、あの・・・」
おどおどと言いよどむ。
あからさまに泳いだ目といい、だんだんと青くなる顔色といい、更に強くなる震えといい。
菊はライヴィスにそっと気遣わしげに声をかけた。
「・・・イヴァンさんに何か言われたんですか?」
びっくーんと一層震えが強くなった。
図星か。
ずっと迷っていたようだが、ライヴィスはとうとう観念したように口を開いた。
「すいません・・・・イヴァンさんが、そろそろ本宅の方へ来るようにと・・・」
「ああ。そういうことですか」
まだ痛む箇所はあるが、動けないほどではない。
菊が「わかりました」と頷いて着替えを手にとると、ライヴィスはまたもや口を開く。
「それで・・・あの・・・・・伝言があって・・・」
「はい?」
絶妙のタイミングでドアが開いた。
からからから、と台を押しつつ入ってきたのはエドである。
エドの顔もまた、なんとも申し訳なさそうに青ざめていた。
菊は台の上を見た。
固まった。
そしてぽつっと呟いた。
「・・・・・三人分ですか?」
疑問系というより希望系だったが、ライヴィスとエドはぷるぷるぷるっと痙攣したように首を振った。
「・・・・・・・・・・専用メニューだそうです」

パンとスープと紅茶とケーキ。
字面だけならちょっとボリュームのある朝ごはんだが、視覚的にはディナーの勢いである。

大きなスープ皿、というより、ちょっと小さなボウルといった方が近いかもしれない。
ぶつ切り肉にかぶやキャベツなど、実に具沢山なスープからはほっこりと湯気が立っていた。
大ぶりなパンにはぶあつくバターが塗られていて、更にスライスチーズにサラミまで。
紅茶がこれまたデカい。
ほとんどスープ皿と見分けがつかない。
甘い匂いがする。底の方に塊が見えた。どうやらジャムが入っているらしい。
台の中央上には、どの面引っさげてデザートを名乗る気だ、といった勢いのケーキが鎮座している。
メインディッシュかと見まがうほどの面積っぷりだ。
見ているだけでお腹いっぱい胸いっぱいになりそうであった。
なにより。というか。一番の疑問点が。
器全てに「KIKU」とのネームプレートがついているのは、これいかに。
これは。菊の首にはめられたものとあいまって。まるで。

「それで、伝言が・・・」

ライヴィスのか細い声が菊をはっと現実に引き戻した。



「・・・『残さず食べたら、本宅へ来てね』・・・・・とのことです」



菊はメニューを見、そして二人を見た。
二人は揃ってびっくんと震えると、すいませんすいませんと壊れたラジカセのように繰り返し始める。

・・・だからこの二人だけに運ばせた、と。

菊は歯噛みした。
その様子を見てほとんど半泣きで震える二人に、慌てて「違います違います!」と言った。
菊に苦虫を噛み潰させたのは、ロシアの性格と器のネームプレートと食事量が5割。
残り5割は、弱点を見破られている、という確信だった。
菊は、犬猫の類を見捨てられない性質であった。
女性を丁重に扱うことを紳士と考えていたし、弱きは守られる者とも考えていた。
こういった考えが根底に染み付いているせいもあるだろう。
菊の考えを古いといって笑う人間もいたが、菊は20年以上の人生をそうやって生きてきたのだ。
この考えを変えようと思ったら、それと同じかそれ以上の時間がかかる。

今後、この二人を使ってイヴァンに無茶難題を突きつけられるのが安易に予想できた。

そのことよりも、この二人の少年を巻き込んでしまうことが心苦しい。
菊は年長者として出来る限り二人の力になれるよう決意を固めていた。
エドとライヴィスが、菊のことを年上であるなどと露にも思っていない事実を知らなかったので。

「・・・努力します」

菊は決意を込めてフォークを握り締めた。
どこか死地に赴こうとしている侍が刀を握る仕草を思わせた。

「すいません。お手伝いしたいんですけど・・・」

「・・・『菊の専用メニューだから、菊以外触っちゃ駄目だからね』と言われてまして」

菊はぴくりと肩を揺らした。
・・・なるほど。ようするに。

「触るな、としか言われていないんですね?」

目を光らせた菊を、エドとライヴィスはびっくりした顔で見つめた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



こんこん。
乾いたノックの音に「どうぞ」間延びした声が重なった。
エドとライヴィスに先を譲り、扉が閉まった時点で敬礼をする。
「失礼します。本田菊です」
「うん。そこ座って」
書類から顔を上げないままロシアが正面の椅子を指し示す。
「エドはこれよろしく。ライヴィスはこっちの書類を渡してきて」
イヴァンは、エドに分厚い書類を、ライヴィスに数枚の封筒を渡した。
二人がすれ違いざまにちらりと心配そうな視線を投げてきたので、菊は心配ないという風に頷いてみせた。
書類を受け取ると、エドとライヴィスも敬礼をし、イヴァンに退室許可を申し出た。
「退室を願います」
「うん。いいよ」
この簡潔極まりない答えは「許可する」ということらしい。
形ばかりのやり取りの後、背後で扉の閉まる音がした。ついで足跡が遠のいていく音。

「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」

しばらく書類をめくる音だけが部屋の中に響いていた。
執務中だからだろうか、イヴァンは眼鏡をかけている。
書類を追う目はかるくふせられていて、まつげも金色なんだと菊は妙なところで関心した。

「少し見ない間に、随分仲良くなったみたいだね」
さっきのエド達とのアイコンタクトを見られていたらしい。
菊は背筋を伸ばしたまま答える。
「あの二人には、ずいぶんとよくしていただきました」
イヴァンはちらりと菊を見ると、とんとんと書類を整えた。
「ちゃんと全部食べた?」
「はい」
「一人で?」
「私以外あの食事には触れていません」
「そう二人に念押ししといたからね」

嘘ではない。
菊以外あの食事には触れていないし、あの食事は全て平らげた。三人で。
簡単なことだ。
イヴァンは『この食事に菊以外が触れるな』といっただけで、『菊だけで食べろ』とは言ってはいない。
菊が限界まで食べると、後はエドとライヴィスに菊が手ずから食べさせてやっていたのである。
実に育ち盛りの少年らしい食いっぷりを披露してくれて、見る見る内に食事は減っていった。
二人は散々恐縮していたが、実は小動物に餌づけしてるみたいで菊はちょっと楽しんでいた。

「これで終わり、っと」
書類を重ねると、イヴァンはふーっと長く息をついた。
眼鏡を外し、重ねた書類の上に置く。
「終わったなら、私も届けに行きましょうか?」
エドとライヴィスの二人にならって申し出たが、イヴァンは首を振った。
「きみの仕事はこっち」
ちょいちょいと手招きされ、内心首を傾げつつイヴァンの後に続く。
案内された部屋に、かなり多い食事が用意されてるのを見て、菊の顔が引きつった。
「あの、これ・・・」
「昼食」
「無理です」
さすがに即答した。
エドとライヴィスに手伝ってもらったとはいえ、菊も限界まで食事をしたのだ。
元々食が細い上、腹八分目を心がけている菊には見ているだけでも辛い。
「安心していいよ。僕のだから」
「はぁ」
「適当に座っていいよ」

なら何故自分を呼んだんですか。
っていうかこれ全部食べるんですか。
しかも適当にと言わたからって離れた場所に座るわけにはいかないでしょう。

菊はもろもろの言葉を全部飲み込んだ。
席に着いたイヴァンが、隣に座った菊に笑顔でフォークを差し出してきたので。
「・・・あの」
「うん」
ちゃんと刃の方ではなく柄の方を向けてきている。
渡し方としては正しいが、この状況でフォークを渡してくること自体正しくない。
「・・・私にどうしろと」
「エドとライヴィスにしてあげたみたいに」








ばれてーら。








「・・・見てました?」
「ずっと書類とにらめっこしてたよ。だから手が疲れちゃって食べるのが億劫なんだよね」

墓穴だった。

「・・・聞いてたとか」
「首輪には爆破機能だけで精一杯で、盗聴器までは搭載出来なくてさ」

入れる気だったんか。

「・・・読みました?」
「心なんか読まなくても顔見ればわかるよ」

逃げ場は無いようだった。

菊はイヴァンからフォークを受け取ると、ナイフを手にとって黙って食事を切り分け始めた。
手早く一口サイズに切り分けていく菊の横で、イヴァンはご機嫌だった。
「美味しい食事を一緒にするとさ、心理的にぐっと距離が縮まるんだって」
「・・・はぁ」
私的には開いたまんまですけど。
菊は半眼で料理を切り分け続ける。
イヴァンの明るい声に、フォークを持つ手がぴたりと止まった。
「あの二人と、前より仲良くなれたでしょ?」

最初から全部計算済みですか。

菊は思わず座った目でイヴァンを見た。
気にした様子もないイヴァンに一つため息をつくと、少し大きめに切り分けた料理を押し込んでやる。
だが、イヴァンは口の端についたソースを気にする様子もなくもぐもぐしている。
菊はまたため息をついた。
この人に何をしたって、結局は自分に返ってくると学習したのである。
ナプキンで拭ってやると、イヴァンは目をぱちぱちとしたあと、何でもなかったように言った。

「次お肉がいい」
「はいはい」