明日の朝日が拝めると思うなよ。
言うことも面構えも月並みな上司は、足音も高らかに独房を後にした。
それが妥当な処分だろう、と思った。自分一人で済めばいいのだけれど、とも。
顔を避け、腹の辺りを重点的に痛めつけるのはリンチの定石だ。
そのおかげで思いっきり腹が痛い。
今ならなんか産めそうな気さえする。
「っぐ」
息が詰まる。寝返りも満足に打てない。
独房の石床は黴臭く湿っていた。冷たいその感触が腫れた頬に心地よい。

「きみ、一体何したの?」

いつの間にか眠っていたらしい。
菊はうっすらと目を開けた。瞼が腫れていて、視界の半分は閉ざされたままだ。
「何回聞く気ですか」
そう呟こうとしたが、ぐぅっと奇妙なうめき声が漏れただけだった。
石床で眠ったせいか、体に奇妙な具合の痛みがプラスされている。
それでも答えたのはもはや意地だった。

「・・・運悪く流れ弾に当たった上司に代わり、前線の兵全員に撤退指示を出しました」
「運悪く、ねえ。で、本当は?」
「ゴム男が俺の出世のために全員死んでこいと特攻命令を出したので、お望みどおり二階級昇進させてやりました」
「ゴム男?」
「無茶で無謀で無能で無計画で無鉄砲」
「あはは。それで五無か。面白いねきみ」
あけっぴろげに笑った男を、菊は上目遣いで盗み見た。
男の背は高く、石床に横たえた体では、首に巻かれたマフラーまでしか見ることができなかった。
「・・・変わってますね」
「きみほどじゃないけどね」
ねえ君。男はあっけらかんと言った。
「犬が飼い主に歯向かってもいいことないよ」
忠告というには声に暖かさが無く、脅迫というには冷たさが無い。
菊は考えるよりも先に答えていた。

「犬が歯向かうのは飼い主の躾のせいでしょう。私の知ったこっちゃありません」

男は楽しくて仕方ないといった風に笑い声を上げた。
そして爆弾発言。
「ぼくが飼ってみようか」
菊はぽかんと口を開けた。
あまりにもあまりなセリフに、思わず思考回路がストップしてしまった。
気づけば反射的にこんなことを呟いていた。

「はぁ。まぁ。お好きなように」



大絶賛後悔中。
ずるずると首根っこ引っつかんで引きずりまわされたら、誰だってそう思うだろう。
すれ違う人がみんな思い思いのポーズでずざざざざっと飛びのいている。
こんなにも堂々とした脱獄を目の当たりにしているというのに、咎めるどころかみんな菊に同情的な眼差しを送っていた。
ちょ、なんか十字切ってる人とかいるんですけど。
「あの、すいません、ホント痛いです。あだだだだ」
「きみ軽すぎ。きみの餌だけ特別メニューにするからね」
「餌って。今餌って」
「名前はどうしようか。あ、そうだ。ポ」
「菊です。本田菊。菊とお呼びくださいええもうほんと」
「僕はご主人様でいいよ」
「公衆の面前で躾通り越して調教とかやめてくださいドSですかあなた」
「あなたか。うん。それでもいいよ」
「・・・お名前をお聞かせいただけませんか」
「イヴァン・ブラギンスキ。イヴァンでいいよ」
「・・・・・・・・・・」

ずるずるずる。三メートルほど無言だった。

「マジですか」
「マジですよ」
イヴァン・ブラギンスキ。通称おそロシア様。
どうりでこんなにも堂々と脱獄できたわけだ。
イヴァンに注意しようにも、そもそもイヴァンより上の階級の人間は存在しない。
「私、最高権力者にあなたとか言っちゃいましたよね・・・。不敬罪で死刑ってありましたっけ」
「死にたいの?」
「生きたいです」
「うん。じゃなきゃ、そもそもあんなことしなかったよね」

ずるずるずる。昨日まで菊の部下だった男達が、引きずられていく菊を悲痛な顔で見つめていた。

おれ達のせいで。
口の動きだけで詫びる彼らに、菊は首を振った。
貴方達のおかげです。
泣かないでくれという意味で言ったのだが、逆に思いっきり涙腺を決壊させてしまい菊は軽く混乱した。

「いい部下だね。ドゲザって菊が教えたの?」
「・・・見て覚えたようです」
「菊がドゲザ?」
「・・・・・」
「ハイ。上司命令」
「・・・ゴム男が特攻命令を出した時に、私だけにしてくれと」
「それでああなって」
「こうなったわけです」
「あの子達はどうなっちゃうんだろうね」
ずるずるずる。角を曲がったせいで、彼らの顔は見えなくなった。
「彼らは私の命令に従っただけで、」
「上司の責任は部下の責任だね」
ずるずるずる。命令無視に加え、脱獄示唆まで。菊は唇をかみ締めた。
「ここで質問。部下に責任をとれって命じるのは?」
「?・・・その部下の上司です」
「なんで部下に責任をとらせるんだと思う?」
「でなければ、自分が上司に責任を負わせられるから」
「で、その上司の上司って誰だと思う?」

ずるずるずる。そろそろ下り階段が見えてきていた。

「・・・わん」
「よしよし」
イヴァンは菊をひょいと抱き上げると、あやすように背中をぽんぽんと叩いた。
「とりあえず首輪かな」
イヴァンがかつーんかつーんと階段を下るその歩調はご機嫌そのものだった。