「日本。日本」

来い来い。

膝をぽんぽんと叩く中国に、日本はほてほてと近づいていった。
しかし寸前でぴたっと止まると、何かを考え込むように黙り込んだ。
そして中国の隣にすとんと納まる。珍しい。
いつもなら放っといても中国の膝の上によじ登ってくるのに。
「? どうしたあるか??」
「・・・」
むぅ。
ぽよぽよとした眉を寄せて考えこむ日本に中国は首を傾げた。
「そこじゃなくてここある」
ひょいと脇に手を差し入れると、ぽすっと膝の上に乗せてしまう。
頭に顎を乗せるとちょうどいい位置だ。
今日は天気がいいので、中庭を見渡せるテラスで飲茶である。
だが、ほこほこと湯気の立つ飲茶と中国茶を見ても、日本の眉は寄ったままだ。
「難しい顔してどうしたある」
「・・・中国さん」
「んー?」
そよそよと風に遊ぶ日本の髪を指で弄びつつ、中国は日本の言葉を待った。

「私は臭いですか?」

「あん?」
いきなりな言葉に、思わず変な声が出る。
日本のつむじに鼻を寄せてみたが、子ども特有の甘い香りがするだけである。
中国は首を傾げた。
「そらまた何であるか?」
「さっき、私は臭いから中国さんの傍に近寄ってはいけないと怒られました」
「・・・ほう?」
さあ、と風に巻き上げられた中国の髪が顔に影を落とす。
膝の上の日本には見えないし、見せるつもりもなかった。
「どいつとどいつにあるか?」
「あの人達と、あっちとあっちの人と、いつもあの人と一緒にいる人です」
「よっしゃ覚えたある」
「?」
きょとんとする日本の頭に顔をうずめ、中国は言った。
「っちゅーか、そもそも我と日本同じ香料使ってるある」
「あ」
「だから日本が臭いなら我も臭いはずある」
「そっか・・・」
日本の頭に乗せた頭をぐりぐりしてやると、痛いですーと笑い半分の抗議の声が上がる。
「ほれ。冷める前に飲茶にするある」
「はい」
片手で日本に烏龍茶を注いでやりながら、中国はもう片方の手で合図する。


とんとん、と机を二回指先で叩いた。
控えていた従者が顔を上げる気配を待ち、ひらと指先で指し示す。
日本が挙げた人物を一人ひとり。
あいつと、あっちとあっちのやつと、いつもあいつと一緒にいるやつ。
くいと指で捻る仕草から、中国の意図を汲んだ従者は音も無く退出した。


「ほれ。小龍包は火傷しねーように気をつけるある」
「はい」
小龍包を少し齧って穴を開け、ちゅ、ちゅとスープを吸い出す日本を膝に乗せて中国はご満悦だ。
既にさっきの奴らは中国の記憶から消え失せている。
現実から消えうせるのも時間の問題だった。

「熱ッ」
「だから言ったある」



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日本は、自分が中国の傍にいることを快く思わない人達がいることを知っていた。
中国の傍に駆け寄るたびに、ちりちりとした視線を感じることも少なくない。
ここは一見平和に見えるが、裏では様々な人の思いが渦巻いていることを中国から教えられていた。
教えられては、いたが。
中国の執務中、一人で中国を待つ日本は、ひやりとした視線を感じた。
振り向けば、見覚えのある従者が暗い目で日本を見据えている。

無意識に唾を飲み込んだ。

考えるよりも先に走り出していた。
振り返れば、暗い眼をした従者は走るでもなく、かといって歩くわけでもなく追いかけてきていた。
全力疾走されるより恐怖心をあおるものがある。
後ろを振り返り振り返り走っていたら、曲がり角で誰かとぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさ・・・」
しまった。
ぶつかった見知らぬ人物の暗い目を見て、日本はここに誘導されたことを知った。
気づけば中国の執務室からも大分離れてしまっている。
すっと血の気の引いた日本を、暗い眼をした数人が取り囲んだ。
辺りに潜んでいたのだろうか、完全に逃げ場が無い。
「もし・・・。なにを慌てていらっしゃいます」
背筋がひやりとした。
のっぺりとした笑顔を貼り付けた従者が、見た目だけは恭しく手を差し伸べてくる。
「やっ・・・」
本能的な恐怖心が総毛立ち、日本は考えるよりも先に差し伸べられた手を払った。
空気が凍った。
上辺だけの笑顔も完全に消え去った。
「痛っ」
日本の声に嗜虐心を煽られたのか、情け容赦の無い力で手首を掴まれ日本は呻いた。
口々に浴びせられる言葉は皆同じ。
汚らわしい。お前はあの方の傍にいてはならない。

薄暗い路地に引きずり込まれ、壁に叩きつけられ、日本に向かって手を振り上げた男が奇妙な角度で吹き飛んだ。

「え」
日本の視界に見覚えのある黒髪が翻った。

ぼっ。
肉を穿つ音が重なり合い一つの音に聞こえた。腕をふるい拳をうめる。同時に3人が吹き飛んだ。
返す動きで足蹴にする。反射的に反撃したその腕を絡めとったかと思うと、男が宙に飛ばされていた。
鞭のようにしなやかな動きはいっそ舞いのようで。
気づけば、残るは日本の手首を掴む男一人だけであった。
視線は男に据えたまま、中国はそっと日本の肩を抱き寄せた。
優しげなその仕草に反して、中国の顔を見た男からザッと音を立てて血の気が引く。
男が反射的に日本の手を放したのを見届けて、中国は無造作に男の顎を蹴り上げた。
ほとんど垂直に天を穿った蹴りの風圧で、日本の髪が舞い上げられる。
思わず眼を閉じた日本の耳に、骨の砕ける音が響いた。

「痴れ者が」

絶対的な王を思わせる声で中国は冷ややかに吐き捨てた。
あやすように日本の背を撫でる手だけがどこまでも暖かかった。



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日本が目を覚ますと、見覚えのある天井が飛び込んできた。
「おー。起きたあるか」
がしがしと頭を拭きながら入ってきたのは、執務中だったはずの中国である。
日本はふにふにと寝ぼけ眼を擦りながら、首を傾げた。
「中国さん?お仕事中だったはずじゃ・・・」
「もうとっくに終わったある」
ぼんやりとした目をする日本を見て、中国はぶつぶつと「もしや飲ませた量が多かったあるか?」と呟いていた。
頭が靄がかかったようにぼんやりしていて、何のことかよくわからない。
「どこまで覚えてるあるか?」
「飲茶を食べたところまでは覚えてるんですが・・・」
まだ舌の先がちょっとひりひりしている。
「ならいいある。よく寝たあるか?」
どかっと日本が寝ていた寝台に腰掛けた中国に、日本はぺこりと頭を下げた。
「すいません。ずいぶん寝ちゃってたみたいで・・・」
「気にすんなある。寝る子は育つある」
湯上りらしく、中国の肌からは暖かな香気が立ち上っていた。
日本は首を傾げた。
「お風呂入ったんですか?」
「あー。仕事中にインク壷ひっくり返しちまったある」
ごろりと日本の横になった中国は、日本の頭の下に腕を差し入れて背をなぜた。
湯上りで暖かな中国の腕は、大きくて心地よかった。
「我も寝るある。おめーももうちょっと寝るよろし」
「・・・はい」
とろとろと瞼を閉じながら、日本はふと自分の匂いが気になった。
半分寝た口調で呟く。
「中国さん・・・。私、臭くないですか?」
中国がふ、と日本の背を撫ぜた。あやすようなその手はどこまでも暖かい。
「いい匂いあるよ。日本を臭いなんていうやつ、もうどこにもいねーある」

起きたら飲茶にするある。
今度は火傷すんじゃねーあるよ。

中国の言葉にはいと頷いて、今度こそ日本は「はい」と眠りに落ちた。