「ニュースは?」

「『評論家の杉田玄黒先生がシリウスを解体新書!?』」

「・・・バラエティーは?」

「『フェリくん!?それとも菊様!?あなたのご注文はどっち!?』」

「・・・・・・トークショーは?」

「『シリウスに負けてたまっ会!見せます出します丸秘NG集!』」

「ヴェ〜・・・つまんない・・・・・」

フェリシアーノはラグに仰向けに寝転んでいた菊のお腹に、ぐりぐりとおでこを押し付けた。
「ちょっと。晩ご飯出たらどうするんですか」
「もっかい作るから」
ぺしっとフェリシアーノの頭をはたくと、その手をとられてアイマスク代わりにされてしまった。
瞼はわずかに熱を帯びていて、その下で眼球がぴくぴくと痙攣している。
「だいぶ目が疲れたみたいですね」
「なんかまだちかちかする・・・」


二人がいるのはフェリシアーノのマンションである。
兄のロヴィーノは、外の友人の家で寝泊りしているらしく、ほとんど家には帰らない。
フェリシアーノは時間さえ合えば、菊を捕獲しては引きずって帰ることを日課にしていた。
「あはは。菊お腹ごろごろ言ってる」
「お腹いっぱいですから」
実質一人暮らしであるフェリシアーノは、驚いたことにきちんと自炊をしている。
一人で暮らすには広い部屋はいつも掃除が行き届いていたし、特に彼の作る料理には驚かされる。
今日の和風パスタも絶品で、軽く目を見張った菊にフェリシアーノは心底嬉しそうに笑った。
腹八分目を心がけている菊だが、育ち盛りの子どものようにフォークを動かし、デザートまで平らげてしまった。

「もう今日はシリウス終わりー。目が疲れたー」
「はいはい」
プラネタリウムからこそこそと逃げ出した二人は、神話や星座など、とにかくシリウス関係の情報を片端からレンタルした。
童話の本の『シリウス』は熟知していたので、二人は星の方のシリウスについて学ぶことにしたのである。
今なら台本無しでプラネタリウムのアナウンスを務めれそうだ。
一気に膨大な量の知識量を詰め込んだフェリシアーノは、うーうー唸って菊の手をかわるがわるアイマスク代わりにしている。
フェリシアーノの手はじんわりと温かく、まるでぬるま湯につけているようで気持ちがいい。
「冷たくて気持ちー」
「フェリシアーノくんが子ども体温なんですよ」
「んー」
「そのまま寝ないで下さいね」
「んー」
「聞いてないでしょう」
「んー」
「いい加減にしないと、またお姫様抱っこでお風呂まで運びますよ」
「・・・シャワー浴びてきます」
フェリシアーノの中であれはぷちトラウマと化していた。
歌舞伎俳優である菊は、ほっそりとしているがその実きれいな筋肉がついている。
女形を演じる際、背を少しでも低く見せるために腰を落とし、その体勢のまま背はしゃんと伸ばし、楚々と流れるように歩かねばならない。
フェリシアーノは番組の企画で女形を演ってみたことがあるが、息も絶え絶えに地面に沈んだ覚えがある。
自分よりも小柄で、細いというかいっそ華奢な菊に「よいしょ」と抱き上げられたショックといったら。
あの日から腹筋の量を増やしたくらいである。
「ヴェ〜・・・」
思い出してまた落ち込んだフェリシアーノは、縦線背負いつつ微妙に傾ぎながらシャワーを浴びに行った。



フェリシアーノがシャワーを浴びる音を聞きながら、菊はぼんやりと考え事をしていた。
ソファーの背もたれに身を沈め、頬杖をつきながら手にしているのは文庫版の『シリウス』だ。
内容は既に頭の中に入っている。
『シリウス』のオーディションの話を聞き、菊はこの本を手にとった。
そして読み終えた瞬間、ふ、と息を吐いて呟いた。
「家の人間はどう言ったら納得しますかね」

菊はシリウスに選ばれるのはフェリシアーノだという確信があった。

こんな機会でもなければ本田家を叩くことはできないだろう。
マスコミが旬の食材を目前にした板前のようになる姿が目に浮かぶようだ。
不思議と悔しさや悲しさといった感情は感じなかった。
諦めともまた違う。
不安、というのが一番近いかもしれない。
それが何に対する不安なのか、菊はいまいち掴みきれずにいる。

菊はぺたぺたという足音にふっと現実に引き戻された。
「菊もミネラルウオーター飲む?」
菊の長年の教育の成果が実ったのか、下には黒のスラックスをはいてはいたが、上は首にタオルを引っ掛けただけである。
その甘い容姿に反して、うっすらと割れた腹筋や二の腕など、最近どこか男の子というには躊躇われる空気を纏うようになってきた。
鎖がかけられた鎖骨のラインも、ペットボトルを楽に二本持てる手も、童顔の菊にはうらやましい限りである。
「風邪引きますよ」
「ん」
喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲むフェリシアーノは、菊の隣に腰掛けた。
喉仏を上下させ、一気に一本飲みつくしてしまう。
そのまま飲料水のCMに使えそうないい飲みっぷりだ。
「はい」
当然のようにタオルをさしだしてくる。
前にシャワーを浴びてそのままベッドに倒れこんだフェリシアーノを見かねて拭いてやって以来、この調子である。
「・・・・・はぁ」
これみよがしにため息をついてやったが、フェリシアーノはにこにこと引く気配が無い。
こう見えても押しが強いのである。
こうなると折れるのは菊だった。ぐしぐしと地肌をマッサージするように水分をふき取ってやる。
気持ちよさそうに眼を閉じた顔は満足した猫のようで、菊はふっと笑った。
「しょうがない人ですね」
「俺、菊にそう言われんの好きー」
「じゃあ、今度からしょうのない人ですねって言うことにします」
「マイガッ」
「嫌ならちゃんと自分でやってください」
ほえほえと曖昧に笑ってごまかされた。
それでも結局拭いてやってしまうあたり、菊はフェリシアーノは甘え上手だと思っている。
自分が甘いという自覚が無い辺りが敗因であることにはついぞ気づかない。
「あ。それ『シリウス』?」
「ええ」
文庫本のシリウスに目を留めたフェリシアーノは、目に悪戯っぽい光を浮かべて言った。
「『あなたは天使さまですか?』」
二人が初めて出会った一節だ。
入院中の女の子の窓辺に、星屑をまとったシリウスが降り立つ場面。
菊は心得たように笑うと、さっとカーテンを開けるように役へと入っていった。
「『いいえ。もう少しで天使に召されるものです』」
「『天使さまではないのですか』」
「『そして人でもありません』」
ずっと自分を見守ってくれていた少女に会えた喜びと、それ以上の緊張が、少女とのなぞなぞのような会話で溶かされていく。
読者に特に厚く支持されているシーンでもある。
二人は歌うように一節を演じきると、フェリシアーノがぱたっと後ろに倒れこんだ。
「ふわーっ。降参!やっぱ菊すごい」
「身に余るお言葉です」
胸に手を当てて軽く一礼してみせる菊に、フェリシアーノは笑った。
菊にこういった茶目っ気があること、それを知っている数少ない一人であることは、フェリシアーノの密かな自慢である。
ツボに入ったのか、しばらく二人でじゃれつきながら笑い転げていたが、フェリシアーノは目じりの涙をぬぐいながら立ち上がった。
「あー。なんか歌いたいかも」
ご機嫌な口調と歩調で窓に歩いていくと、フェリシアーノは「うりゃ」と窓を開け放った。
雨が降ったのだろうか。少し湿った空気からはみずみずしい花の香りがした。
夜中だし近所迷惑だから、と注意することはしなかった。
どんな時間にどんな場所で歌っても、アンコールの声を聞きこそすれ苦情が来たことなど一度も無い。
聖書を朗読しただけで審査員全員を涙させたことは今でも語り草だ。
フェリシアーノはあーあーと楽しそうに発声練習をしている。
開け放った窓を背に立つと、彼が天使であるかのような錯覚を覚える。
「リクエストある?」
「じゃあ、あれで」
「菊あれ好きだよね」
俺も好き。
言うと、フェリシアーノはすう、と息を吸った。
不思議な緊張感。
空気さえ清聴して彼の歌に耳を澄ましているかのような錯覚を覚える。

「You are my sunshine」

あまりにも有名なラブソング。
そのシンプルな歌詞と優しいメロディーが菊はとても好きだった。

――――― あなたは私の太陽

窓の外から見える景色に、ぽつぽつと明かりが灯っていく。
フェリシアーノの歌が聞こえたのだろう。
止むことなく増え続ける明かりの群れに、彼がこんなにも人を動かす力があることを思い知る。

――――― あなたは知らないでしょう 私がどれだけあなたを愛しているか

ああそうか。
すとんと腹の底に落ちるような錯覚。
菊は、フェリシアーノがシリウスに選ばれると確信した時の、あの不安の正体を知った。
歌舞伎俳優を本業として、様々な仕事をこなしている菊だが、いずれは正式に本田家11代目を継ぐだろう。
舞台が違う。生きる世界が違う。フェリシアーノとの距離は開くばかりだ。
シリウスを足がかりに、フェリシアーノの道は大きく開けるだろう。
フェリシアーノが、自分から離れていくこと。
菊はそれが不安でたまらなかった。


――――― 私の太陽を奪わないで


最後のフレーズがいつまでも菊の頭の中に響いていた。