か ぐ 夜 





フランシスがヴァッシュの元を訪れると、ヴァッシュは顔をあげもせずに算盤を光速で弾いていた。
いつもの光景である。
なにか違うものがあるとすれば、帳簿の字が妙に綺麗なものに変わっていることくらいだ。
ん?フランスは首を傾げた。
どこか几帳面な性格を感じさせるこの字がヴァッシュと結びつかなかったのだ。
「お客様だぞー。茶ぁくらい出してくれよ」
こういったら、ヴァッシュはようやく顔を上げて「帰れ」と情け容赦のない一言を放つのが常だった。
暖簾をくぐるなり鉛玉の一発が飛んできた頃に比べれば随分マシになった方である。
それが、今日に限ってフランシスを無視して店の奥の方に顔を向けた。そして叫ぶ。
「茶は出さんでいい!ただの暇人だ!」
「ひどっ」
フランシスは叫んだが、ヴァッシュは気にせず帳簿の計算に戻った。
「なによ。人嫌いのお前が珍しい。誰か雇ったのか?」
フランシスはずずいと身を乗り出した。
噂話に目を輝かせるおばさんのノリである。
「雇ったわけではない。よく働いてくれているがな」
聞けば、帳簿の字もその人物が書き直したらしい。
「美人か?」
「男だ」
「で、美人か?」
「・・・どっちでもいいのか」
フランシスは真剣な表情で体を乗り出したが、ヴァッシュは半眼でフランシスを睨みつけた。
引く様子のないフランシスにため息をつくと、算盤を弾く手を止めずに言った。
「お前の言っていた通りではあったな」
「あん?」
怪訝そうな顔をしたフランシスの前に、静かにお茶が差し出された。
お茶請けらしい、和紙にくるまれた可愛らしい和三盆が添えられている。
「どうぞ」
「いらんと言ったであろう」
「もう淹れてしまった後でしたので」
ヴァッシュの前にもお茶とお茶請けを並べる菊を見て、フランシスは口を半開きにしたまま固まった。
「お久しぶりです。フランシスさん」
「あー、うん。えー?」
フランシスは額を押さえ、ひとしきり混乱していたが、気を取り直して顔を上げた。
菊にそらもー色んなことを聞こうとしたその口を、ヴァッシュがぴしゃりと打った。
「あだっ」
「見るな減る」
「ヴァッシュさん・・・」
「さがれ菊。ご苦労であった」
菊は迷っていたようだが、そっと一礼すると店の奥の方に戻っていった。
ヴァッシュにしてみれば、素性を尋ねられることをよしとしない菊に気を遣っただけの行動なのだが。
それを他人が見たらどう思うか、という思考は持っていなかった。
というか気にしてなかった。
ましてや、あのヴァッシュが他人に気を遣っているという光景が、他人の目にどんな風に映るかなど。
フランシスは菊が消えた方を見、ヴァッシュを見、なぜか声を潜めて耳打ちしてきた。
「・・・すっごい色々質問していい?」
「我輩にならな。菊には突っ込んだ質問はしてやるな」
「うん。おにーさんそんな野暮なことはしないから」
フランシスは辺りをはばかるように、そっと質問し始めた。

「・・・一緒に暮らしてんの?」
「ああ」
「いつから」
「前にお前が来た夜からだな」
「夜!?」
「月に誘われるまま歩いていたら偶然出くわしてな」
「はー・・・そらまたイイシュチュエーションだこと。そんで?」
「我輩の家に呼んで月見をした」
「珍しく積極的だなオイ。それで、したの?」
「何をだ」
「ナニをだよ」
「寄るな。不快である」
ずずいっとフランシスが迫ってきたので、ヴァッシュはべしっと払って遠のけた。
「貴様は相変わらず意味がわからん」
「どぅあからっ!菊と寝たのかって聞いてんだよ!」
小声で叫ぶという器用な真似をしたフランシスに、ヴァッシュはこっくりと頷いた。

「寝た」

ぴーちちち、と鳥の鳴く声がした。

「・・・おにーさん、ヴァッシュがそんな子だって知らなかった」
「我輩も、貴様に床とキスする趣味があるとは知らなかった」
床に沈んだフランシスに、ヴァッシュはそう漏らした。
フランシスはひとしきりうんうん唸った後、むっくりと復活した。
「あー、うん。とりあえず、あれだ」
「どれだ」
「菊には惚れるなよ。って、もー遅いか」
「何故だ」
ヴァッシュは純粋に疑問に思って聞いただけだったが、フランシスは目を剥いていた。
「・・・変わったな」
そういえば、とヴァッシュは首を傾げた。
前にも同じようなことを言われた時は、大して興味をそそられず「意味がわからん」と一刀両断した覚えがある。
だが、今は前と違う。
「貴様は前にも言ったな。根拠はあるのか」
「菊から聞いてないのか?」
「聞かんからな」
「・・・お前はそうだろうな」
だから菊もお前とは一緒にいれるんだろうと、フランシスは一人で納得している。
「菊が月から来たって言ってた話、しただろ?」
そういえば。ヴァッシュはフランシスがしていた話を記憶の底から引きずり出した。
「そん時、俺の話遮っただろ」
「どうでもよかったからな」
「おーまーえーなー」
フランシスは低い声を出して唸ったが、ヴァッシュは平然と茶をすすった。
「話せ。今はどうでもよくない」
フランシスは口を開いて閉じる、を何回か繰り返した後「ここまで変わるとは恐るべし菊」とぶつぶつ言っていた。
そして気を取り直したように話し出す。
「あん時遮られた話だけどな」

「私が月から来たといったら笑いますか?」
瞬き半分ほどの間が空いた後、フランシスは笑いながら言った。
「どうりで滅多に見かけない美人だと思った」
「・・・ありがとうございます」
菊はちょっと寂しげに微笑んだ。
「月の人間は、みんな菊みたいな美人ばっかりなのか?」
「さあ。兄と弟には、よく似ていると言われますが」
「残念。妹か姉だとよかったのに」
二人でひとしきり笑った後、フランシスは言った。
「お兄さんと弟は、こっちに来ないのか?」
「いえ。迎えに来る予定なんです」
「月から?」
「ええ」
菊は微笑してみせる。
内心はどうであれ、完璧なポーカーフェイスだ。
「私の病が治った頃に、迎えにくると。それまで月から見守っているそうです」
「それはそれは」
フランシスは笑った。
笑顔の裏で、心の病という単語が頭を掠めた。
皆の噂どおり、心を病んでおり、家人に上手い具合に言い含められているのではないかと冷静な思考がはじき出す。
その方がよほど真実味があったからだ。
そんなフランシスの考えを過敏に感じ取ったのだろう。
菊は微苦笑すると「付き合ってくださってありがとうございました」と、去ってしまった。


「月うんぬんは冗談にしても、迎えに来るってのは本当の話だろ」
フランシスは珍しく真面目な顔をしていた。
「身分どころか人種も違う。どう足掻いても一緒にはなれんだろうよ」
ヴァッシュは答えるかわりに茶をすすった。
いつの間にか冷めてしまったそれは味を感じなかった。



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菊が来てからというもの、ヴァッシュも月見が日課になっていた。
いつものように縁側に腰掛けた菊は、どこかぼんやりとしているヴァッシュに首を傾げた。
「どうなさったんですか?」
「・・・どうもしないのである」
ヴァッシュが呟くと、菊はちょっと首を捻っただけで、何も言わずに熱燗と肴を載せた膳を引き寄せた。
菊がつけた熱燗に、大根の葛あんかけ、豆腐の味噌漬け。それと、なにか見慣れない椀物が乗っている。
どれも菊がこしらえたものである。
「病人なのだから、休めと言っているだろうが」
「いえ。動いていたほうが気が楽なので」
菊はヴァッシュがたしなめるたびに、笑いながらそう言った。
確かに、菊がこの家に来てから、だいぶ顔色が良くなったようだ。
以前は咳き込むことも多く、太陽の下で見ると、ただでさえ白い顔色が益々青白く、今にも死にそうに見えたこともあった。
「フランシスさんに牛乳を頂いたので、こんなものを作ってみたんですが」
「なんだこれは」
菊は、膳の上に載っていた見慣れない椀物を差し出してきた。
何かぽってりとした、見慣れない白い塊が入っていた。
「蘇といいます。牛乳を煮詰めて作るんです」
「・・・ふむ」
ヴァッシュは箸をつけた。最初の一口を含んで、驚いたように目を見開く。
それからしばらくは夢中で箸を動かしていた。
「お気に召したようで、幸いです」
菊は笑いながら、自分は大根の葛あんかけに箸をつけている。
しばらくは、互いに無言で箸を動かしていた。
時折杯を傾け、木々のせせらぎに耳をすます。
この沈黙を重荷に思うどころか、今この瞬間がなくてはならないように思える不思議。
以前のヴァッシュなら考えられないことだった。
といっても、ヴァッシュはそれを口に出して誰かに言ったことはなかった。
自分にとって未知の感覚であったし、自分が上手く把握出来ていないものを、他人に上手く説明出来る自信がなかったのだ。
もっとも、フランシスあたりに言わせればそれは二文字で片付けられる。
そして、それは時折世界を救ったりする感情の名なのだと、笑いながら付け足してくれることだろう。

「昼間、フランシスさんと何を話していたんですか?」
「菊のことを」
菊はきょとんと目を見張った。
「私のことですか?」
「よく働いてくれて助かっている、と」
ヴァッシュがいえば、菊はほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
「それから、フランシスから菊の話を聞いた」
菊の笑顔が凍った。ヴァッシュは構わず続ける。
「月から来たと聞いた」
独り言のように呟いた。
答えたくなければいい、という意思表示の意味もあった。
それを汲み取ったのだろう、菊は目を伏せて静かに呟いた。
「笑ってもいいですよ」
「笑えないな」
ヴァッシュは怒ったように続けた。

「何故フランシスに言って我輩には言わん」

菊は目を見開いてヴァッシュを見つめて、呆気にとられたように呟いた。
「・・・それだけですか?」
「我輩にとっては大事だ」
「いえ、そうではなく・・・・・」
菊はうろうろと視線をさまよわせた。
ヴァッシュは覗き込むように無理やり菊と視線を合わせた。
酔いが回ったのか、目元に朱がさした菊が、ぼそぼそと喋り始めた。
「前に、人との関わりを避けなければならないと言った時、感染る病だ解釈された話をしたでしょう?」
「聞いた」
「それと同じように、みんな私が月から来たというと、心の病だと解釈したんです」
当然ですけど、と呟く菊の息は酒の香りがする。
ヴァッシュは無意識に菊の唇の動きを見つめていた。
「フランシスさんに言った時も、そう解釈されて、距離を感じて」
ちょっと落ち込みました、と眉尻を下げて笑った。
「ヴァッシュさんの様な方は、本当に貴重で、だからよけいに言えなくて」
つまりですね、と呟くと、菊はやっと顔を上げた。
予想以上に近いヴァッシュの視線にもひるむことなく、菊はまっすぐに目線を合わせて言った。
酒のせいだけではないとわかるほどに紅潮した顔で、緊張した声音で一言一言に力を込めて言う。
「嫌われたくなかったんです」
それだけ言い切ると、また頭を下げてしまった。
「ごめんなさい。ヴァッシュさんの優しさに甘えてしまいました」
「かまわん」
ヴァッシュは自分でも驚くほど刺々しい感情が消えていた。
「お前を嫌うことはない」
そこで言うべきセリフは真逆なのだと、突っ込んでくれるフランシスはここにはいない。
菊は心から嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「・・・礼などいらん」
ヴァッシュは一気に杯を煽った。酔いが回ったのか、耳が熱を持っていた。
菊は嬉しそうに月を見上げている。

「こうしてみると、遠いですよね」
「・・・ああ」
「月から地球を見た時は、本当に大きく見えたんですよ。だからもっと近いのかと思ってました」
「・・・ああ」
ヴァッシュは杯に視線を落としたまま応える。
「あそこにいた時は、本当に、今よりも重症で」
目を覚ます度に、泣きそうな顔で兄と弟が顔を覗き込んでいたと、菊は笑った。
「こんなに回復するなんて、思いもしませんでした。ヴァッシュさんのおかげです」
「・・・ああ」
「もしかしたら、もうそろそろ迎」

杯が地面に転がる音で我に返った。
気づけば、ヴァッシュは驚くような力を込めて菊の手を掴んでいた。
菊は何も言わずに、目を見開いたままヴァッシュを見つめている。
なにかよくわからない焦燥に動かされるまま、ヴァッシュは呟いた。

「・・・・・月に、」

帰るのか、と聞こうとした。
帰るな、という思いがその言葉をせきとめた。
喉に何かがつまったようになんの言葉も出てこない。
聞いたところで何になる。
ふと浮かんだそんな考えが舌を鈍らせた。
頷かれでもしたら、それこそその瞬間に消えていなくなるのではないかと。
ヴァッシュは思わずこんなことを呟いていた。























「うさぎはいるのか」























―――――いっそ殺せ











もし今ヴァッシュが銃を握っていたなら、迷わず頭を打ち抜いていただろう。
しかし今ヴァッシュの手の内にあるのは、菊の手だった。
菊はその手を振り払うでもなく、声をあげて笑い転げるでもなく、目をつぶって微笑んだ。
「いつか、確かめにきてください」
その柔らかい声を聞いた時、ヴァッシュの頭の中が妙に冷えていった。
頭の中の冷静な部分が、フランシスの言葉を思い出していた。
「・・・そうか」
呟いて、菊の手をそのまま引き寄せる。
体制を崩した菊の脇に手を差し入れ、そのまま抱きこむように膝の上にのせてしまう。
ヴァッシュも小柄だが、菊は更に小柄だった。
赤ん坊にするように膝に乗せて抱き込む。まるで何かから覆い隠すように。
「わっ・・・」
驚いたような声をあげるが、その表情は見えない。
ヴァッシュは菊を自分にもたれかけさせるように抱きかかえて、肩に顔をうずめた。
くすっぐたそうに身をよじるその動きを封じてしまう。
「ヴァッシュさん?」
片手を首にまわし、もう片方の手で菊の手を握りこんだ。
指の間に指を差し込み、絡めるように握り締める。
酔ってますね、と困ったように笑う菊の声がどこか遠くに聞こえる。
腕の中から逃げない、その事実にどうしようもなく安堵する。
しばらくそうやって二人で月を見上げていた。
菊は懐かしむように、ヴァッシュは睨むように。