時間を切り取る




助かった。
終息を向かえた感染。そのウソのような奇跡に、村はお祭り騒ぎである。
フランシスは、ぐったりと眠る菊の傍で頬杖をつきながら、その喧騒を遠くに聞いていた。
疲労が限界に達したのだろう。
やることを全て終え、指示を出すだけ出すと、椅子に倒れこんでぴくりとも動かなくなった。
靴や服を脱がせ、楽な格好にしてやると、真新しいシーツに寝かせてやる。
目を閉じるとますます幼く見えるその顔を、フランシスはぼんやりと眺めていた。
正に据え膳である。けれどフランシスもまた体力の限界に達していた。
「ちぇ」
口を尖らせて子どものように呟くと、とりあえず一枚だけシャッターを切っておく。
そして慎重にカメラをしまうと、菊の横にもぐりこんだ。
抱き枕代わりにしても起きない。
チャンスだったのになぁとぼやきながら、フランシスもまた深い眠りについた。



合流を予定していた本隊は、負傷者こそいれど全員無事だった。
村に入るなり菊を見つけ、ラテン系独特のリアクションで盛大に出迎えてくれる。
その内、わらわらと村人にも取り囲まれる。
わやわやと騒がしい中で、フランシスは菊に耳打ちした。
「大人気ねお前」
「医者は貴重なんですよ」
苦笑する。どうやら、物資を届けがてら無償で診てやっていたらしい。
人垣を押しのけ、見慣れない人物が顔を出した。
「遅かったではないか」
むっつりとした表情。軍装だが、菊達の本隊のものとは違っている。
「もしかして、手伝ってくださったんですか」
「主に消火活動をな。お前のせいで我輩の出番は無かった」
「まさか。ヴァッシュさんのおかげで被害が最小限ですんだんですよ」
ヴァッシュと呼ばれた人物を指差し、フランシスは首を傾げて言った。
「誰よその小っこいの」

だじょーん

ぱら、と舞い落ちた金髪に、フランシスの血の気が引いた。
指を指したポーズそのままで固まったフランシスには見向きもせず、ヴァッシュは菊にずいと身を乗り出した。
「いい加減我輩の隊に入れと言っておるだろう。今より確実に稼げるようになる」
「考えておきます」
美しき日本語でいうところのNOである。
ヴァッシュはふんと不機嫌そうに鼻を鳴らすと、書類を差し出した。
見れば、物資のリストを連ねた書類である。
菊のサインを見届けると、ヴァッシュはさっさと踵を返した。
「物資は即刻届ける。我輩はもう行く」
「ありがとうございます」
「礼などいらん。お前に貸しておいて損はない」
最後までフランシスを無視しきったまま、ヴァッシュは去っていった。
菊は「時折仕事を手伝うかわりに、物資や人手を安く提供していただいてるんです」と言っていた。
言いながらも口と手を休めない。
本隊に指示を飛ばし、素早く作業に入る。

物資が届けられるなり、菊達はめまぐるしく動いた。
真新しいテントに設備を整えると、奇跡的に生き残っていた患者を全て運んだ。
医療物資さえ充分なら助けられる。
菊がそう言うと、村人は泣き笑いのような表情を浮かべた。
血がついたシーツは風向きに気をつけて燃やしてしまう。
発症したものには触れないよう、発症者が出た家、その家の者も、他に触れないようにすること。
徹底した衛生管理のおかげか、感染は徐々に終息しつつあった。
助かった。
誰かが呟く。やがて大きなうねりをなしたそれは歓喜の咆哮となって天を突いた。
それを見つめる菊の横顔は、生まれた子どもを見つめる母親のようだ。
見惚れながらも、手は無意識にカメラを構えていた。
「菊」
振り向いたその顔に夢中でシャッターを切った。
驚いた顔、苦笑する顔、やめてくださいと笑う顔、伸ばしてくる手から逃げながらシャッターを切り続けた。
撮りたい。菊を見ていると何度もそう思う。自分でも持て余すほどのその衝動。





感染は終息を迎え、村には少しずつだが余裕が出てきた。
すると、人と人とのぶつかりが出てくる。
伝染病という、共通の敵がある内は、全員一致団結していた。
その問題が解決した今、行き場の無い悲しみや怒り、ストレスなどを持て余した者同士の諍いは耐えなかった。
「またケンカか」
フランシスはため息をついた。
幼い少女は、フランシスの手を掴んで一生懸命引っ張っていこうとしてる。
現地の言葉はわからないが、その焦りようと、遠くから聞こえる喧騒で明白だった。

フランシスは人との接し方がうまい。
なにより、その低く豊かに響く声は女性を口説く時に絶大な効果を発揮する。
言葉が通じなくともそれは有効だったらしく、たちまち女性陣と仲良くなってしまった。
カメラを珍しがって集まった子ども達の相手をしてやったせいもあるだろう。
子どものフランシスに対する感情は、その親にも伝染した。
女・子どもに好かれれば、自然と男の警戒心も解ける。一部の独身男には睨まれてしまったが。
何度かケンカの仲裁まがいのことをしてからというものの、ケンカの度に呼び出しを食らう羽目になった。

「やーめろって。女の子が怯えてんでしょーが」
言葉が通じない分、ボディランゲージと声音に頼るしかない。
人好きのする笑顔を浮かべながら、険悪な雰囲気の男達の間で「まーまー」と穏やかな声を連発する。
好きでやっているわけではない。
女の子が恐がっている。
それも大きかったが、なにより大きな理由があった。
「菊が寝てんだって。静かにしてあげてちょーだい」
菊の名前に、男達がうっと身じろぎした。

限界に達していたこともあって、菊は少し体調を崩していた。
すわ発症かと村人は騒然となったが、ただの風邪であることが判明し、胸をなでおろした。
菊は衛生管理を今まで以上に厳重にすると、皆に言った。
ただの風邪ですから寝てれば治ります。
けど、風邪とはいえ映ったら大変ですから近寄らないで下さいね。
そう言い聞かせると、さっさと寝てしまった。
横になった瞬間眠りに落ちたその姿を思い出す。
疲れているのだろう。少しでも休ませてやりたかった。

「ん?」
何か甘い香りがして、フランシスは首を傾げた。
男達の反応は、フランシスよりももっと素早かった。
弾かれたように頭を上げ、辺りを見回している。
はらはらと男達のケンカを見守っていた村人も、そわそわと落ち着き無く辺りを見回していた。
そして匂いの根源を見つけると、弾かれたように走っていった。
「なんだぁ??」
目を白黒させるフランシスの目線の先に、ひらひらと手を振る菊の姿があった。
「菊!?」
村人より遅れて、フランシスが駆け寄っていった。
菊の足元には煮えた鍋があり、甘い匂いはそこから漂っていた。
見れば、鍋の表面には何か屑のようなものが隙間無く浮いており、くつくつと煮出されている。
「起きて大丈夫なのか?」
「はい。おかげさまで」
微笑むその顔は、前よりも大分顔色がよくなっている。
ほっとした胸をなでおろしたフランシスに、菊ば鍋の中身をカップで掬い取って差し出した。
ほこほこと甘い匂いのする湯気が立っている。
村人がフランシスを羨ましそうに見つめていた。
「お茶ですよ。この地方独特のものですが」
菊は太い棒のようなものを取り出した。
見れば、細かな茶葉を独特の方法で固めてあるものらしい。
菊はナイフで表面をこそぎ落としながら、鍋の中に次々と落としていっている。
「お茶にしましょうか」
現地の言葉でそう言った菊に、村人は声を上げて喜んでいる。
次々と容器を持ち寄り、鍋から直接お茶を掬い取っていく。
さっきまでの剣呑な雰囲気はどこへやら。
皆嬉しそうに茶を飲んでいる。見れば、さっきケンカしていた二人は照れくさそうに頭を下げあっていた。
「余裕も必要ですよ。特に、温かいものはお腹に入れるだけで大分違います」
言いながら、菊はかしかしとナイフで茶葉を削り取っている。
鍋の中身は見る見る減っていき、菊は休むことなく鍋に水を足し、茶葉を足していく。
「菊、貸しな。おにーさんがやったげよう」
フランシスは半ば無理やり聞くにカップを押し付けると、ナイフで棒のように固められた茶葉を削り取っていく。
そして呆れたように言う。
「いつの間にこんなもん準備してたんだ。休めって言ったろ」
「すいません」
わざとらしくしかめっ面を作ってみせるフランシスに、菊は笑いながら言った。つられてフランシスも笑う。
菊は茶葉の浮くカップに口をつけると、ぷっと茶葉だけを吐き出した。
「前歯で濾して飲むんです。食べても大丈夫なんですけどね」
なるほど。フランシスは頷いた。
もぐもぐと口を動かしているものもいれば、菊のように地面に茶葉をぷっと吐き出している者もいる。
子ども達はどちらが遠くに飛ばせるか競争していた。
茶葉を鍋の中に落としきったフランシスは、火に土をかけると笑いながら子ども達に呼びかけた。
「ハァイ」
きょとんと振り返ったその顔に、すかさずシャッターを切る。
けたけたと笑うその顔に、もう一枚。
男の子は、フランシスに、肘から先の無い手を元気いっぱいに振ってくれた。
もう一人の男の子は両腕が無かった。隣の女の子にお茶を飲ませてもらっている。
ぷっと一際強く茶葉を吐き出すと、見たか!とでも言わんばかりに胸を張った。
胸をそらしすぎたのか、支える手が無いせいでそのまま後ろに倒れこんでしまう。
子ども達はきゃらきゃらと笑い転げると、男の子を立たせてやりながら、またお茶の葉を飛ばしあい始めた。
上手く笑えていただろうか。
ファインダー越しでなければ、真正面からあの明るい笑顔を受け止めることができない。
可哀想というのではない。そんな一段高いところから見下ろすような感情ではない。
ただその笑顔にどうしようもなく胸が掻き毟られる。身勝手な感傷だとわかっていても。
「優しい笑顔ですね」
「ホントにな」
「フランシスさんのことですよ」
思わずフランシスは振り向いた。
「フランシスさんは、優しい人です」
いつのまにか陽が暮れていた。菊の言葉とその光景に、フランシスは息を呑んだ。
落ちる寸前の線香花火のように蕩けた夕日が目にも鮮やかで。
やがて訪れる夜と溶け合って、空の端は薄紫色に滲んでいた。
じりじりと、茶を煮ていた残り火が音を立てた。
どうしようもなく優しい色の空を背負い、残り火の灯りにぼんやりと照らされる菊の微笑みに、フランシスは胸を突かれた。
笑いあう子どもたちの声がどこか遠くに聞こえる。
シャッターの音で我に帰る。
衝動に突き動かされるまま、無意識に撮っていたらしい。
「何をやってるんですか」
笑うその顔に、力なく笑い返して目を閉じる。しかしあの微笑みは消えない。網膜に焼きついている。
どうしようもなくこみ上げるものがあった。
泣きたいような、叫びたいような。フランシスはその衝動に逆らわず、目を開けるなり菊の手を握った。
人気の無い林に連れ込むなり、息が触れるほど間近に菊の顔を覗き込む。
「いいか」
意味は明白だった。
フランシスの言葉と間近にかかると息は熱をはらんでいて、菊は息を呑んだ。
夕焼けの中でもはっきりとわかる、朱をはらんだその顔に、いっそう湧き上がる衝動がある。
フランシスはその衝動に身を預けた。
頬に触れる。撫ぜる。何かを言いかけて開いたその唇を塞ぐ。眩暈がした。
角度を変えて口付ける、その合間に直接囁いた。柄でもなく声が震えた。
「どうしよう。好きだ」
言ってしまえば楽になった。好きだ。囁いて、戯れのように触れる。何度も角度を変えて口付けた。
甘い。先ほどの茶の名残だろう、それにどうしようもなく誘われる。
は、と息をつく菊の口からのぞく舌に、思わず唾を嚥下する。熱に浮かされたように囁く。
「悪い。嫌なら逃げて」
止まらない。木に追い詰めて、今度は深く口付ける。
逃げるその舌を追って絡める。
ん、菊の控えめな息継ぎの合間に唇を舐めれば腕の中の体が震えた。
歯列をなぞり、口の端から伝い落ちそうになる唾液を舌ごと強く吸い上げる。
崩れ落ちそうになる菊の腕をとり、首にまわさせた。
半ば本能的だろう、縋るように抱きついた菊に、背に興奮が駆け上った。ああもう。
「好きだ」

少年のように笑う顔。噴出したあの表情。
今度こそ。決意を秘めて呟いたあの横顔も。
行きましょうか。銃を片手に浮かべたあの薄い笑みも。
優しい人だと、微笑んだお前こそが誰よりも。
撮りたいと、何度も何度もそう強く思った。
腕の中の少年のような体を抱きしめる。
夢中でシャッターを切る、突き動かされるような衝動の正体を声に出した。
「好きだ」
自分でも持てますほどの強い思い。フランシスは何度も菊にそう囁いた。






出来上がった写真は、男が唸るほどのものばかりだった。
久しぶりに手にした大金に、フランシスはほくほくと満面の笑みを浮かべた。
しばらくは仕事と切り離して、純粋に写真を楽しむことができるだけの金。
「まさか、ここまでとはな」
男は唸った。
そして一枚の写真をとりあげると、からかうようにフランシスに言った、
「やはり、お前は女を撮らせるといい仕事をする」
蕩けるような夕日。うっすらと夜が滲む彩雲。
どうしようもなく優しい風景の中、それ以上に優しく微笑むその表情。
男は菊の顔を知っている。
その男を以ってしても、別人と見まがうほどの菊の笑顔。
フランシスはあの時無意識にシャッターを切った自分を全力で褒めてやりたい。
「表情を引き出すのも、一種の才能だが、これは・・・」
写真には、映り手の心もにじみ出る。
ファインダーの中に切り取られた景色だけでなく、写真を撮る人間が見ている景色がそのまま映るのだと、男は言った。
そしてにやりと笑った。
「女は女でも、お前の女か?」
フランシスは肩をすくめた。苦笑を浮かべながら。
「そうだったらよかったんだけどね」



フランシスは、菊を口説いて口説いて口説きまくった。
それこそ人目をはばからず、昼夜を問わず。
それでも、菊は困ったように笑って言った。
あなたのそれは一種の発作のようなものだ。日本に帰れば戻ると。
その一点張りだ。譲りゃしねえ。
今まで散々自分のような輩に言い寄られてきたのだ。無理も無い。
冷たいシャワーを浴びて、綺麗な女性を見つめること。
医者が患者に言うように、フランシスにそう忠言する始末。
体を繋げようと思えばそれは簡単だった。けれど、そうではない。
とうとうフランシスが帰国する日になった。
菊は、村のために今しばらく留まるらしい。
別れ際に、フランシスは一枚の写真を差し出した。
「これ」
声も表情も真剣そのものだ。これで駄目なら諦める、そんな覚悟までしていた。
「記念に」
設備も無ければ道具もない。その一枚を現像するので限界だった。
あの日の写真。無意識にシャッターを切った、あのどうしようもなく優しい写真。
俺の目にお前はこう映っているのだと、伝えたかった。
菊は写真を見て、しばらく声も無く立ち尽くしていた。
思わず明後日の方向を見つめるフランシスに、菊は。
そっと写真を返した。
「私の写真を、私が持っていてもしょうがないですから」

 






見事なまでの振られようである。
男の事務所を出たフランシスは、特大のため息をついた。
「はー・・・・・」
道行くキレーなオネーサマに慰めてもらおうかと、視線をめぐらせる。
無意識に黒髪の女ばかり目で追っていることに気づいて、益々へこんだ。
「・・・重症だわコレ」
頭をかいて、菊の写真を取り出した。
あの日菊に返された写真である。
これで駄目なら諦めようと、覚悟をしておきながらこの未練。
本気で惚れていたのだと、今ならわかる。
直視できなくて、くるりと写真を裏返して・・・目を剥いた。



いつの間に書いたのだろう、そこには11桁の数字が並んでいた。



フランシスは、何度も何度もそれを読み返した。
やがて数字を完璧に暗記した頃、ふらりとケータイに手を伸ばす。
目にも留まらぬ速さで数字を打ち込んで、耳に押し当てる。



数秒も待たないうちに、声が聞こえた。



『はい』



フランシスの顔にこらえきれない笑みが浮かぶ。



シャワーを浴びても、綺麗なオネーサマを見つめても。
浮かぶのはやっぱりお前の顔だと言えばどんな顔をするだろうか。
ぜひともシャッターを切りに行きたい。

「日本に帰ってきたけど、治るどころか酷くなる一方だわ。診てくれるか?」



今どこにいる?



返ってきた答えに。












フランシスは笑いながら振り返った。