時間を切り取る




窓に近づけば冷たい夜の風を感じたが、宿の中の方は夜になっても昼間の匂いと熱がこもっていた。
酒にタバコ、香辛料の強い料理の匂い、それに多種多様な民族の体臭が入り混じってものすごいことになっている。
割れるような喧騒。鼻だけではなく、耳まで麻痺しそうだ。
行き先こそ違えど、兵士の夜の過ごし方は皆一緒だ。
食べる。飲む。寝る。
一人で寝るか、商魂たくましいお姉さま方に相手してもらうかは、そいつらの自由だが。
こんな場所に好き好んで飛び込むのは、相当なクレイジー野郎か、フリージャーナリストという人種くらいだ。
少なくとも俺は後者だ。
こいつはどっちなんだろうなと、フランシスはぼんやりと菊を見つめた。

「あなたは、私と行動を共にしていただきます。本隊とは村で合流します」

割れるような喧騒の中、不思議とよく通る声だった。
少したどたどしいが、訛りのない英語が耳に心地よい。
カウンターの席につき、酒も飲まずに簡素な食事をとる二人は明らかに浮いている。
というか、菊が明らかに目立っていた。
象牙色の肌に、黒蜜色の髪。
こんな男まみれの巣窟で、毛深くもなければごつくもない、少年のような体つきとくれば。
フランシスににやにや笑いながら忠告する連中もいた。
「気をつけな。菊は可憐な少女にしか見えんが、中身はどうして大したもんだ」
確かに、今日一日一緒にいてみて、明らかに下心満載の連中が菊に親切にしている場面も見かけた。
菊自身は怒るわけでもなく、そんな連中は全て軽くあしらっていたが。時には力ずくで。
時たま、体格のいい男達に路地に連れ込まれていたが、平然と出てくるのはいつも菊の方だった。
残された屈強な男達は皆大になって伸びていて、フランシスは目を見張ったものだ。

「任務の内容は物資の輸送です。注意事項だけ・・・」

道中異変を感じたら、トランシーバーを使って緊急通報のコールサインで各団体に通達すること
銃口を向けられたら、どんな場合も車両は停止すること
命を取られるよりは、金品を取られた方がまだましということを覚えておくこと


それらのことをザッと説明し終えた後、菊は「以上です」と軽く一礼した。

「後はご自由に」
「んじゃ、一緒にメシ食っていーい?」

菊はじっとフランシスを見上げた。
警戒心というより、警告といったほうがいいだろう強い眼差し。
フランシスは苦笑して両手を挙げた。
そして日本語で言う。
「ホームシックでね。日本語が恋しいだけだよ」
菊は軽く目を見張った。
どう見てもフランスの美丈夫である彼が、流暢な日本語を喋ったことに驚いたのだろう。
やがて、だいぶ警戒の色を薄めた瞳で笑う。
それでも最後の一線の警戒網は解かない。
目を閉じて寝そべった虎が、それでも耳だけはそばだてているような。前線で生きるものの知恵。
「久しぶりに日本語を耳にしました。日本は長いんですか?」
「水道水が普通に飲めちゃうくらいには」
笑った。
そうしていると普通の少年にしか見えないのに。
フランシスは「なんでこんなとこにいる?」とは聞かなかった。
お互い様だった。










数ヶ月前。フランシスはさびれたビルの一室で、男と向き合っていた。
フリージャーナリストであるフランシスは、ここ最近の仕事の成果を持ち込んだのだ。
「どうよ」
ばさり。
机の上に広げられた写真を一瞥すると、男は数枚を選び取った。

「これと、これと、それ。後はそっちのを買おう。他はいらん」
「少なっ」
ネガの必要な部分だけをハサミで切り落としていく。俺の作品見るも無残。

今回はけっこう自信作だったんですけど。

がっくりと肩を落とすフランシスに、男は鼻を鳴らした。
「お前は女を撮らせたらいい仕事をするんだがな」
男が選んだ写真はどれも女が写っているものだった。
「特に、この写真だな。今はこういった写真の需要が大きい」
「あー・・・」
小さな花嫁の写真。
幼い黒人の少女の眼差しは不安そうに揺れていて、乾いた唇にグロスを乗せられている場面だった。
花嫁は11歳。花婿は50歳。
金が動く結婚式は珍しいものではないが、その現場を写真に収めることができたのは幸運だ。
「そうそう撮れるもんでもないなこーゆーのは。っていうかぶっちゃけ偶然撮れた」
「だからこそ求められる」
ふむ、と顎に手を当てて考え込んでいた男は、フランシスに言った。
「お前、本気で写真で儲ける気は無いか?」
貯金は底を突きかけてた。
ここで断っても他の奴に仕事を流されるだけだろう。
フランシスは不承不承頷いた。
「こいつについていけ。いい写真が撮れるだろう」
男が投げてよこした写真には、KIKU HONDAの文字と、一人の東洋人の姿。
「お。好み」
「口説いてみろ。お前の舌なら二枚あるから一枚くらい平気だろう」
「物騒だなオイ」
「兵士だからな。今は」
「昔は?」
続くセリフに、フランシスは目をむいた。
更に行き場所を聞いて驚いた。
手をあげれば撃たれないと思っている国の人種が、なんだってそんな危険地域に。









見渡す限りの膨大な土地に、時折思い出したように寂しく草が生えている。どこか薄ら寒い光景。
舗装されていない道を、エンジン音を吹かせながら突き進む。
運転は交代性。食事も睡眠も順番で、という強行軍だ。ことは一刻を争う。
トラックだろうがジープだろうが運転できる。だからこそフランシスは菊の目に留まった。
器用にハンドルをさばきながら、フランシスは腕を組んで目を閉じる菊の横顔を見つめた。
こんなに揺れる車内でよくもまぁ寝れるものだ。
上から下まで眺めて、つい喉仏を確認してしまう。ある。でも好みだ。
「前を見て運転してくださいね」
目を閉じたままそう言う菊に、フランシスははちょっと目を見張った。完全に寝てるかと思った。
「そんなに見られれば誰でも起きますよ」
菊は目を開けると、そう言って笑った。
フランシスも笑いながら返してやる。
「見ても見なくても一緒だって。これじゃ」
見渡す限り平野である。菊も微苦笑した。
「利点はありますよ。敵が近づいたら一発でわかります」
「そうならないよう祈っとく」
苦笑して、胸元で十字を切ってみせる。
その胸元で揺れるフランシスのカメラを見て、菊はちょっと首を傾げた。
「フリージャーナリスト、でしたっけ?」
「そ」
「写真が好きなんですか?」
フランシスは目を見張った。
フリージャーナリスト、と聞いて、蔑むやつなら数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいいる。
写真が好きなのかと、真っ直ぐに聞いてくる人間は初めてだった。
思わず笑いながら言う。
「好きだよ」
低く豊かに響く声に、何かを懐かしむような色が混じっていた。
聞かれたことがない。だから誰にも言ったことのない本音だった。
「写真ていうか、時間が好きだな」
「時間、ですか?」
「そ。一瞬一瞬で違う顔を見せる。面白いったらないね」
女心のようなそれを捕まえることにどうしようもなく手応えを感じる。
時間を切り取る。
写真はそのための手段だった。
写っている景色だけでなく、背景にある歴史、人の思い、息づくそれらを伝えたくて、この道を選んだ。なのに。
「随分とまぁ遠いトコに来ちゃったけど」
ははー、とちゃかすように軽く笑ってみせる。
今から行く先は、もうすぐ隔離地域になる危険地帯だ。
ある意味戦争よりも恐れられている伝染病。
原因不明の出血熱は、その爆発的な感染力と致死性から、生物兵器に転用すべく研究が進められていると噂されているほど。
治療法など夢のまた夢。
唯一の救いは、潜伏期間が短いこと。発症から死ぬまでは恐ろしく早い。

いい写真が撮れるだろう。
そう言って自分を送り出した男の顔を思い出す。
世間は刺激を求めている。
毎日配信されるニュース、その中に入り乱れるケチな犯罪では満足できないのかもしれない。
もっと刺激的で、ドラマチックな悲劇が欲しいのだ。
例えば、血を撒き散らしながら死んでいくようなその様が。
悪趣味だと、フランシスに軽蔑する権利はない。
その死に様を写真に収め、金を得ようとしているフランシスには。

「ホント、随分遠いトコに来たなぁって思うよ」
再び呟く。突き放したような声は自嘲を含んでいた。
フランシスは、じっと自分を見つめてくる菊の目に落ち着かなくなった。
いつも目を逸らすのは相手の方だった。
直視できないのだろう。褒められるような仕事はしていない。
それでも再びフランシスを見る目に浮かぶその色に、こみあがるため息を抑えるのが常だった。
菊は真っ直ぐだ。
言葉も、フランシスを見つめるその視線も。
「その一瞬を刈り取っている立場の者としては、なんとも言えませんね」
腰に下げられた銃をぽんぽんと叩いて、菊は困ったように笑って見せた。
その銃に恐れを抱くより先に、眉を下げて笑うその顔が可愛いと思う辺り、自分はどうかしているのだろうか。
「菊は」
なにげなく続けた。
「殺したことあるか?」
他意は無い、単なる好奇心。
それがわかったのか、菊も淡々と答えた。
「その逆もありましたね」
思わずフランシスは笑った。
予想外の反応に目を丸くする菊に、笑いながら言ってみせる。
「それを聞いた後でも口説きたいって思うのは、おかしいか?」
菊は目を丸くした。そして噴出す。
「安心して下さい。日本に帰ったら自然と治りますよ」
「経験あり?」
「よくある症状です」
生理現象だと菊は笑いながら言った。
命の危険を感じると、本能が強く働くらしい。子孫を残さねば、という強い本能が。
「冷たいシャワーを浴びるか、綺麗な女性を見つめることをオススメしますね」
「生憎どちらも手元に無いな」
「口説いてるんですか?」
「両手さえ塞がってなかったら是非そうしたい」
「じゃあ村に着くまでそうしててください」
「そんじゃ村に着いたらゆっくりお相手願うわ」
逃げられれば追いたくなるのが男の性だ。
笑いながら尚も口説こうとするフランシスに、菊は奇妙なほど静かな声で言った。
「残念ながら、無理そうですね」
菊は村の方を厳しい目線で見つめていた。
フランシスは菊を見つめていたので、気づくのが遅れたのだ。
不審に思い、菊の目線を追う。
ようやく見えてきた点のような村の影。そこから上がる黒い煙。
「燃えてる!?」
「どうやら、早まった者が出たようですね」
感染の拡大を恐れたのだろう。燃やして跡形も無くすつもりか。
畜生。
日本語で、スラングで、言葉は違えど思ったことは一緒だった。
「どうするよ」
「村に向かいます」
「おい!?」
「今ならまだ間に合います。火の手はさほど大きくない」
目を剥いたフランシスに、菊は尚も言った。
「あの病気は血液感染です。気をつけさえすれば大丈夫です」
爆発的な感染力。
その原因には、血を撒き散らしながら死ぬその症状ではなく、使いまわされた注射針があった。
菊は静かにそう語った。
無意識だろう、呟いた声はともすれば聞き逃しそうな小さいものだった。
「今度こそは」
唐突に思い出した会話と、菊のセリフが結びつく。



「兵士だからな。今は」
「昔は?」
続くセリフに、フランシスは目をむいた。
「医者だよ」




今度こそは。
伝染病の巣窟に飛び込む恐怖よりも、そう呟く菊の横顔をファインダー越しに見つめたい衝動が勝った。
撮りたい。抱きたいという思いに酷似したその衝動。












火の手は小さくは無いが、手遅れでもなかった。
問題は、火をつけてまわった兵士だった。
村を一望できる丘に車を滑り込ませると、菊は即座に飛び降りて大きな鞄を取り出した。狙撃銃だ。
組み立て、装填するまでの動作は実にスムーズだ。引き金を引く動作には迷いが無い。
「軽蔑するならお好きにどうぞ」
「鏡に向かって唾を吐くようなモンだな」
銃声を聞きながら、フランシスもまた望遠用のカメラを取り出す。
望遠になればなるほど、手振れは酷くなり、扱いも難しい。
腹ばいになって肘をつく。狙撃を続ける菊と似たような姿勢でシャッターを切り続ける。
フィルター越しに見える凄惨な風景。目にも鮮やかな赤、赤、赤。
シャッターを切るその心は何も感じない。
この仕事を続ける上で身に着けた心を切り離す術。そうでもしなければやってられない。
一人、また一人、着実に火をつけてまわった兵士が減っていく。
脳天が風通しがよくなったその瞬間を撮る。
何も感じないようにする。酷く困難だったその作業。
今ではもう自動的に心が切り替わる。これも一種の防衛本能だろうか。
フランシスは淡々と呟いた。
「どうやって見分けてんの」
「村人か、そうでないか」
シャッターを切りながら言うフランシスに、菊は答えた。
銃声。シャッター音。遠くに響く悲鳴、怒号、ありとあらゆる音の洪水。
何も感じないよう、冷静になればなるほど研ぎ澄まされる五感。
音の洪水の中、確実にお互いの声を拾い上げる。
「物資の輸送は、前々から引き受けていました。その時に、全員の顔と名前を」
菊は淡々と語った。手は休めない。フランシスもまた、手を休めずに耳を傾けた。
「駆け出しの医者だった頃、自分から志願して、あの病気のボランティア医師団に」

誰かの役に立ちたい。熱意ばかりが先走っていた。
現実は凄惨だった。
名ばかりの荒々しい治療、常に不足する医療器具、2年を持ち込んで運び込んだ物資は半年で底をついた。
何もかもが足りない。物資も、人手も、時間も。
患者を最後まで診れたことはなく、一度診た患者をもう一度診た覚えが無い。己の記憶か、それとも。
覚めない悪夢こそが現実だった。
そして決定的な出来事。
「手術をしていました。助かる患者だった」
南の方の訛りがある男の子だった。そして兵士だった。珍しいことではない。
北と南の抗争中だった。
運がよかった。菊達のテントは北の方に位置していて、運び込まれたのが早かったのだ。
助けられる、その事実に心が湧いた。
手術の最中、兵士らしき男が飛び込んできた。
治療をやめろ。北の訛りで叫ぶ、その手には銃が握られていて。
「考えるより先に体が動きました」
手術をしていても、尚銃を握り締めたままだった男の子。
メスを地面に放り投げ、その銃をもぎ取った。
そして。
「男の子だけが助かりました」
あの小さな兵士が殺したのか、テントの中の患者はほとんど息絶えていた。
動ける患者と、医者と看護師は皆、村の外に逃げて難を逃れた。
皮肉にも、患者が減ったことによって出来た時間。
その時にようやく明確になった、使いまわされた注射針の存在。

「それで、兵士に志願したのか?」
「志願したわけじゃないんですけどね」

まず医療体制を変える必要がある。
そのためには安全な物資の輸送ルートの確保が必要だ。
信頼できる人材の確保も必要。
そう考えて、自分でやったほうが早いと考えた。
日本で金を稼ぎ、自分でこれはと思った人物を雇い、身を守るために銃を使う内に。

「気づいたらこうなってました」
菊はそう言って、引き金を引く手を止めた。
村の火は消えつつある。
どうやら、妨害する人間がいなくなったらしいので、消火活動が実にスムーズに進んだらしい。
「さて。行きましょうか」
微笑んで立ち上がる。差し出された逆の手には、黒光りする狙撃銃が。


狂っている。
そんなお前にどうしようもなく惹かれる俺こそが誰よりも。