神様仏様。
だれか。
この現実から救ってくれるなら誰でもいいから。




しゃらららーん



「ブリタニアンエンジェル参上!」



なんか出た。



「さぁ!俺に会いたいという願いは叶ったぞ!残り二つは何がいい!?」



「消えてください」



「なんと!?」






   






どこか気だるい春の午後の授業。
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、菊はずっしりとのしかかる眠気に耐えていた。
見渡せば教室の4分の1ほどは既に撃沈している。
昼食をとったばかりなのに、ただひたすら教科書を朗読するこの教師の授業は嫌がらせに近い。
眠い。だがしかし。
菊は普段が真面目すぎるほど真面目なだけに、ほんの少しのことでも教師は目ざとく注意する。
注意しやすいせいだろう。有体に言えば目をつけられていた。
シナティのタオルを枕がわりにすぴょすぴょ寝息を立てている王はスルーしても、菊がこっくりこっくりしただけで目ざとく声を尖らせる。
だが眠い。
すんごく眠い。
ぶっちゃけ寝たい。

(・・・ああもう)

困った。

菊は胸中で嘆息した。
途端に後悔した。
眠気が吹っ飛んだどころか、ザッと音を立てて血の気が引いた。

(しまっ・・・)

遅かった。


スッパァァァン!


音を立てて開かれた教室のドアに、全員の視線が集中した。
このくそ暑い中、きっちりとスーツを着込んだ金髪碧眼の美青年が出現。
上から見ても下から見ても不審者だが、顔だけは無駄によかったので女生徒の一部が瞳を輝かせていた。
しかしそれ以上に瞳を輝かせた男は、はつらつと叫んだのである。



「菊!なにか困ったことはないか!?」



しいて言うなら今この現状が。



突っ込むかわりに、菊は諦観した眼差しで鞄を掴んだ。
軽く一礼して教師に告げる。
「早退します」
言うなり男の手を掴んで引きずっていく。
教室中の視線が二人を追っていたが、しばらくすると普通の授業に戻っていった。
あまりにもあまりな出来事だったので、脳が理解できなかったらしい。
シナティのタオルから顔を起こした王の傍で、女生徒が興奮気味に「本田くんの知り合いかな」と囁きあっていた。
王は眠そうな目でそれらを眺めていたが、またシナティのタオルに突っ伏した。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「菊。奇跡起こして欲しくないか?」

「考えておきます」

「奇跡みたいよな?」

「また今度」

美しき日本語でいうところのNOである。

さっさと自宅のアパートに引き上げた菊は、アーサーの言葉を右に左に聞き流しながら紅茶を入れていた。
どちらかというと日本茶派だったのだが、アーサーが来てからはもっぱら紅茶を淹れている。
淹れ方を覚えてみればけっこう楽しいものだった。
既に暖めておいたポットに、ぐらぐらの熱湯を注いでティーコーゼをかぶせる。
きっかり時間を守ってから注げば、綺麗な琥珀色からなんともいえないいい香りがした。
「ずいぶん上達したな」
「おかげさまで」
今でこそ感心しきりのアーサーだが、紅茶には人一倍うるさい。
最初は紅茶の類はアーサーが全部淹れていたほどだ。
しばらく二人でお茶を飲んでまったりしていたが、アーサーはまだ気にしていたらしい。
菊の目を覗き込みながら言ってくる。
「無いのか?起こして欲しい奇跡」
「うーん・・・」

菊は腕を組んで考え込んだ。
単位の心配はない。
生活費は足りている。
お昼を食べたばっかりでお腹はいっぱいだ。
なんと食後のお茶まで(淹れたのは菊だが)

「十分満ち足りていますが」
「永遠の命も永劫の富も望まないのはお前が初めてだ」
アーサーは不思議そうに首を傾げた。



アーサーは、天使である。
なにしろ、初対面の第一声が「ブリタニアンエンジェル参上!」だった。
なぜブリタニアンかは聞かなかった。ウエスタンラリアットのウエスタンくらいどうでもよかったので。
彼の説明によると、彼は菊に3つの奇跡をくれるために現れたらしかった。
天使と名乗ったわりにはランプの精のノリである。
1つ目は、彼が菊自身の前に現れたこと。
2つ目は、思いっきり不審者扱いした菊が「消えてください」と即答したため、天使の羽と輪っかが消えて普通の青年の姿になった。
残り一つの奇跡をかなえるために、アーサーはずっと菊の傍に張り付いていた。
菊が「困った」と声に出しても出さなくても、アーサーはチャンスとばかりに現れる。
そして言う。奇跡を起こしてやろうと。
全力で拒否するのが菊の日課になっていた。



「それ、叶えてあげたんですか?」
菊はふと疑問に思って聞いてみたが、アーサーは首を振った。
「俺の役目は、願いを叶えることじゃなくて奇跡を起こすことだからな」
という建前を元に、気に入らない願いは片っ端から切り捨ててやってる。
ニヤリと極悪な笑いを浮かべて、アーサーはそう言ってのけた。
菊は半眼でつっこんだ。
「私が望んだらどうするつもりだったんですか」
「お前が望むならどんな奇跡でも起こしてやる」

なんかすごい恥ずかしいこと言われた。

ほんの軽いジャブのつもりだったのに痛烈なボディーブローがかえってきて、菊は撃沈した。
ふらふらと特売のチラシを握り締めて、なんとか声を絞り出す。

「・・・じゃあ、買い物お願いします」

「ハードル低ッ!」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



結局、アーサーは初めてのお使いにきていた。
あまりにもハードルが低かったので、3つの奇跡のうちにはカウントしていない。
「えーっと・・・」
アーサーはメモを読み読みしつつ、スーパーの中をきょろきょろしていた。
慣れない様子でカゴを引っさげながら歩くアーサーに、女性の店員がちらちらと様子を伺っている。
なんとか口を出す機会をうかがっているようだ。
だが、アーサーの後ろからつかつかと近寄ってきた人影が、さっさとアーサーを引きずっていってしまった。
残念そうな視線に見送られ、アーサーは首根っこ引っつかまれて引きずられていく。
「なんだ!?」
「うっせーあへん。おめーただでさえ無駄に目立つあへん」
「うわ王」
アーサーはゲッと顔をしかめた。
王は菊とは旧知の仲らしく、菊の兄貴分を名乗っている。
突如として菊の家に住み着いているアーサーに、面と向かって何か言ったことはない。
ただ、アーサーを見かけるたびに睨むように見据えるのが常だった。
思えば、二人だけで話をするのは初めてかもしれない。
「おめーなんだってここにいるあへん」
「菊に買い物頼まれたんだよ!」
「ふうん。糸こんにゃく、ブロッコリー、じゃがいもににんじん・・・ほとんど特売品じゃねーあるか。相変わらずあるな」
「返せよ!っていうかお前もチェックしてんのかよ」
堂々とメモをふんだくった王は、さっさとアーサーのカゴにメモの商品をぶちこみはじめた。
無視かよ。
アーサーはひきき、と顔面を引きつらせた。
王は構うそぶりすら見せずしゃべり続ける。
「菊は、おめーが来るまでよく笑うやつだったある」
「?」
アーサーは首を傾げた。
菊は今でもよく笑っているが、前はもっと笑っていたのだろうか。
こないだも、菊の作った肉じゃがに感動しきりのアーサーを見て、声を上げて笑っていた。
そんなに気に入ってくれたら嬉しいと。
「正確に言えば、笑顔しか浮かべてなかったあるな」
糸こんにゃくをぽいっとアーサーのカゴに放り込むと、王はさっさと野菜コーナーに向けて歩き出した。
「今ではよく怒るし、騒ぐし、呆れるし、色んなモンためこまないで吐き出すようになったある」
だから、と王は続けた。
「おめーには何も言わんある。我はな」
野菜コーナーは出口の近くにある。
雨が降るのだろうか、店内に吹き込んでくる風はぬるく湿っていた。
「菊はあの通り馬鹿がつくほど真面目なやつで、だからご近所にも可愛がられてるある」
「知ってる」
「けど、それ以上に一挙一動注目されてるある」
「・・・・・」
「あの真面目な本田さんが、身元不明の無駄に顔のいい男引きずり込んだっつって格好の噂あへん」
「、菊はそんなヤツじゃ!」
「知ってるある。我が一番」
「・・・・・・」
アーサーは黙った。王は構わず話し続ける。

菊が今一人暮らしをしていること。
最初に出て行ったのは父親で、次が母親だったこと。
それを聞いたとき血相を変えてかけつけた王を見て、菊が言った言葉のこと。
『あの人は、責任という言葉が借金よりも苦手な人でした。
走れないのにリレーの選手に選ばれたようなあの人を見ていると、恨む気持ちよりも哀れに思う気持ちの方が勝ります』
父をあの人と呼んだそれだけが反抗らしい反抗だったこと。
最低限の良識はあったらしい父は借金を菊に押しつけることはしなかったし、母親は毎月きちんと生活費を振り込んでくれていること。
二人から連絡がくることはなかったが、相変わらず父の行方は知れないこと。
母は再婚して子どもが出来たらしいことを、菊は風の噂で知ったこと。

「これで全部あへん」
どさどさどさ。
王は、アーサーのカゴにメモに書かれていた商品を全部ぶちこんだ。
「菊の事情からして、おめーの存在はよくないある」
「・・・・・」
「学校の噂になるのも時間の問題あへん。我が言いたかったのはそれだけある」
立ち去ろうとした王に、アーサーは搾り出すような声で言った。
「・・・どうすればいい」
呟いたアーサーに、王は振り返った。しらけた表情で言う。
「おめー肉じゃが好きあるか?」
「はぁ?」
怪訝な顔をするアーサーに、王はカゴを指差してみせる。
「じゃがいも、にんじん、糸こんにゃく、たまねぎとくれば肉じゃがある」
「好きだよ。それがどうしたんだよ!」
「肉じゃがの材料だけ特売品じゃなかったある」
メモの中でそれらだけが。
アーサーはぽかんとした。また作りますねと笑った菊の顔が脳裏に閃いた。
王はふんと鼻を鳴らすと、今度こそ踵を返した。
振り返らずに言う。

「菊からはおめーのことを手放せないある」

せいぜい目立たないようにしとけあへん。
そう言って王が去った後も、イギリスはしばらくそのままでいた。
雨が降ってきたのだろう。
外からの風は冷たく吹きつけてきた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


スーパーからのろのろと出てきた人物を見つけて、菊はぱしゃぱしゃと小走りに駆け寄った。
「アーサー」
「・・・菊。なんでここに」
「雨が降ってきましたから。迎えにきたんです」
そこで、ちょっと申し訳なさそうに頭を下げる。
「すいません。最初は二本持ってきてたんですけど、さっきそこで王さんに会って・・・」
「・・・なんか言ってたか?」
ぴくっと肩を跳ね上げたアーサーに気づかず、菊は言った。
「いえ。傘を持ってなかったので、私がよかったらと傘を貸したんです」
「・・・そうか」
「大きいから大丈夫だと思うんですけど」
腕を伸ばして傘を掲げる菊の手から、アーサーは傘を抜き取った。
「俺が持つ」
菊はつかの間迷ったようだが、身長差からしてアーサーに任せたほうがいいのは明白だ。
すいませんと頷くと、かわりにと両手を差し出してきた。
「じゃ、せめて荷物を」
「いや。俺に持たせてくれ」
真剣な面持ちでいうアーサーに菊は首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや」
ひとしきりおたおたとしたあと、アーサーは慌てたように叫んだ。
「別にお前のためとかじゃなくて、肉じゃがのためだからな!」
ざあざあ。ざあざあ。
しばらく傘を叩く強い雨の音だけが響いていた。
明後日の方向を睨みつけているアーサーは、恥ずかしさのあまり内心悶絶している。
その真っ赤になった顔を見て、菊は転がすように笑った。
「お気に召したようで幸いです」
しばらく菊の笑いは止まなかった。
目元を赤く染めたまま、アーサーは菊が濡れないよう傘を傾けながら歩く。
「よくわかりましたね。肉じゃがだって」
「・・・王と、スーパーの中で会って。この材料だと肉じゃがだろうって」
「ああ。それで」
それきり会話が途切れた。
しばらく無言で歩き続け、人気もまばらな通りに差し掛かった。
「ここの信号長いんですよね」
菊がぽつりと漏らす。
車で2台ほど通り過ぎていった時、アーサーが前を見据えたまま小さく呟いた。

「なんか、無いか?欲しい奇跡」

「今は特に」

「俺にしてほしいこととか、してやれることはないか?」

「アーサー?」

アーサーの表情は真剣そのものだ。菊は首を傾げた。

ご飯を作れば、いただきます、ごちそうさま、美味しかったを欠かさず言ってくれる。
疲れている菊を気遣って、紅茶を淹れてくれたりもする。
困ったと、菊が呟いたり思ったりしたら、俺にできることはないかと聞いてくれる。
なによりも、縋るように祈ったあの一番辛いときに傍にいてくれた。



「奇跡が欲しくないというのは、してほしいことがないとか、アーサーにできることがない、とかじゃなくて」



んん、と菊は唸って、首を傾げた。
言葉が上手く出てこない。
思ったままをとりとめもなく口にする、だからこそ心からの言葉にアーサーは真剣に耳を傾けている。


「今のままで十分色々してもらってるんですよ。本当に」


菊が濡れないよう気を遣ってくれているのだろう。
アーサーの濡れた左肩を見て、ああそうかと菊はようやく納得した。
しばし葛藤する様子を見せた菊がやっと口を開いたので、アーサーは思わず背を伸ばした。
そして菊は思ったままのことを口にする。






「傍にいて下されば、それだけで」






アーサーは目を見開いた。
ぽかんと開いたその口から、ほぼ反射的に言葉が飛び出していた。
「もう絶対傍から離れない。幸せにする、絶対」
「いえ、そうではなく」
強い口調で早口で言い切ったアーサーを、菊は片手をあげて押し留めた。
また気を遣わせてしまったかもしれない。
菊は眉根を寄せて考え込んだ。
3つ目の願いといえば、自由にしてやるか、その真逆と相場が決まっている。
菊の願いはどちらかといえば後者に近かった。
けれど、菊はアーサーを無理に縛り付けることはしたくなかった。
どうやったら上手く伝わるだろうかと考えて、菊は結局そのままを伝えることにした。
「アーサーは自由にしていいんです。ただ、私はアーサーが傍にいてくれたら嬉しいというか」
「俺は菊の傍にいたい。いさせてくれ。俺の意思だ」
菊はしまった、と思った。我ながら今の言い方はずるい。
アーサーが自分の意思で菊の傍にいてくれたら嬉しいと思う。
でも、それを自分で言わずにアーサーに言わせるのは卑怯だ。
「そうではなくてですね。ああもう!」
畳み掛けるように言うアーサーに、菊はわかってもらおうと身を乗り出した。

「要するに、私のことを嫌いにならないでほしいんですよ!」

雨が降っているせいか、辺りは薄暗かった。
遠くからライトを点けた車が走ってきた時、アーサーははじかれたように菊のことを抱きしめた。
傘が落ちてしまったが、アーサーにしっかりと抱きしめられた菊には全く雨粒が当たらない。
「アーサー?」
菊が何かに耐えるように眉根を寄せているアーサーを見上げた瞬間。

ばしゃー。

ライトを点けた車が思いっきり水を跳ね上げていった。
アーサーの背中はぐっしょりと濡れてしまったが、菊は抱きこまれていた為まるっと無事である。
「うわ!大丈夫ですか!?」
アーサーはのろのろと菊を離すと、肩に手を置いたまま言った。
「・・・ああ。頭が冷えた」
「全身冷えてますよ!?」
「危なかった・・・」
「全然セーフじゃありませんから!」
菊ははた、と口を噤んだ。
かばってくれたのに、あんまりな物言いだったことに気づいたのだ。
「かばってくれてありがとうございます。・・・大丈夫ですか?」
「そういうことにしておいてくれ」
「全然大丈夫じゃないんですね」
どこか遠い目を見つめるアーサーの手から傘をとると、折りたたんでしまった。
もうこうなったらさしてもささなくても同じである。
「お風呂沸かしてありますから、帰ったらすぐに入りましょう」
「一緒にか?」
「あんな狭いお風呂に男が2人も入るわけないでしょうが」
あからさまにがっかり顔のアーサーの手を掴むと、菊はさっさと走り出した。
雨はだんだんと小降りになってきている。
きっともう少しで晴れるだろう。